仏教伝道協会による英訳大蔵経を参照しつつ大正新脩大藏経を基にして現代語訳されました。
「父母恩重経」は中国において制作された偽経の一つです。仏教の歴史の中において偽経は数多く出現しましたが、とりわけ「父母恩重経」はアジア圏でもっとも広く知られ、読まれてきました。
紀元後1、2世紀頃、初めてインドから中国に仏教が流入すると、当初は神あるいは天国へ昇天できる教説と考えられ、中でも、悪鬼を祓い、幸福を呼び、そして永遠の長寿を獲得するものとみなされました。このように中国では、異国の教義を説く仏教は民衆の世俗的な利益をもたらすものとして扱われたのです。
この「異国の教義」は中国で普及する中で、もともと大陸に深く根付く伝統的な儒教や道教と出くわしました。仏教では我々が三世の世界(過去、現在、そして未来)をめぐると説く一方で、土着の中国では伝統的に幸福と満足とは個々の現世にあると焦点を当てていました。これこそが中国の伝統的な考えと仏教の教えとの最大の違いなのです。
さらにまた仏教には、一生から他生は、男性であれ女性であれ個々の前世の行為によって決まるという輪廻の教義が含まれています。サンスクリット語「カルマ(業)」は文字通り「行為」を意味しています。個々におけるすべての行為はいずれもカルマとして知られ、そして、仏教に従えば、生そのものはカルマの連鎖とみなされました。人の一生の間は、男性であれ女性であれ、量と種類とによって蓄積されたカルマにおける男性あるいは女性の行為と作用と相互に関連しているのです。質については、善であるか悪であるか、個々の現在において蓄積されたカルマにより六道(地獄、プレタ(餓鬼)、畜生、アースラ(修羅)(半神半人で常に闘争に明け暮れる)、人、そしてデーヴァ(神々))のいずれかに再生あるいは次世が決定されます。
仏教、特に初期仏教の教えでは、出家もまた宗教的な考えでした。熱心な信奉者は家族との縁を切ることを強調し、世俗的生活における階層から修行僧となったのです。宗教的生活の目的は悟りを成し遂げることと世界の欲望への愛着から自由になることです。家庭、財産、社会的地位、そしてそこから離れること、というのもそれらは悟りのための修行に妨げとなるからです。仏教の体系において、人は孤独な場所で質素な生活を送り、同行者、友人、知人らと関係を保たなければなりません。人は世俗的生活に束縛されてはならないのです。
これとは対照的に、伝統的な中国の考え、とりわけ儒教では、人生のもっとも重要な責務とは家族を養う(血統を絶やさない)ことであると常に教えます。人は三つの義務を至上命令として果たすことが期待されました:(すなわち)祖先の宗廟を保ち給仕しなければならず、現在の父母を大切に敬わなければならず、そして未来において三つの義務を果たすべく子をこの世に儲けなければなりません。中国において、家と家族とは人生における中心であり、永世を保つものなのです。
中国で受容される初期の段階において、仏教はこのような中国の宗教、社会、そして文化規約と不安定な関係にありました。さらに時の支配王朝における領主らの政治的な複雑性がありました。このような条件下で、中国人の日常を広く支えている儒教の考えに、仏教がいかに一般大衆を引き付け、広く行われ、そして確固たる中国文化となったかを思案することは興味深いものです。
実は、「父母恩重経」は儒教と仏教との実際の習合を明らかにするうえでもっとも興味深くかつ典型的な一例です。この観点から、本経はきわめて重要です。中国に起源をもつため、常に伝統的仏教や歴史において議論上の経典とみなされてきたからです。
「父母恩重経」は子の恩愛を説いた仏教経典として知られています。これは儒教の伝統的な経書「孝経」と同様によく知られているものです。「父母恩重経」は、中国仏教の僧侶により儒教経書を模倣して制作されたものと思われ、仏教は子の恩愛を説くけれども、あくまでも悟りを成し遂げる大望に基づいていました。
本経の中心となるのは我々が父母からの恩義を受けているということです。説くところは我々を育成し、多くの異なる種類の親愛と助けとを父母から受けていることであり、いずれも天空の広さに際限なく、その価値は計り知れないと譬えられました。本経は我々が父母に対しその恩義に報いることを説いていますが、―現実的な問題として我々が受けた恩愛はいかにして報いられるべきものなのでしょうか。
「父母恩重経」によれば、我々が父母から受けた恩愛に対して報いるためには、まず、父母を敬い、次いで、ウーランヴァナ(盂蘭盆)の儀式を7月15日に行うことを説き(儀式における原型と儀礼は本巻21~23頁所収「盂蘭盆経」に詳細されています)、そして最後に、「父母恩重経」を書写し、暗誦し、普及させることを説いています。これらの行いを果たすことで、人は5種の重罪から解き放たれて自由を得るのです。ついに人は六界の苦しみにおける存在の領域から解き放たれて自由になり、悟りに至り、そして、究極的には、ブッダの状態を獲得します―それは仏道における最高の到達点です。
本経の初期の記録は、紀元後695年則天武后の治世下に刊行された「武周録」偽経録にみられます。しかしながら、この記録は「武周録」のみに記載されていることから、「高麗大蔵経」は、後世に挿入されたものであると示唆しています。少なくとも、偽経としての性格は当初から明白であり、決してインドで成立した真説の仏典とみなすことはできないでしょう。他の記録として、唐代の730年に編纂された、「開元釈経録」にも、「父母恩重経」はまた中国において形成された偽経であると記録され、その理由として三人の中国人の孝行息子たち、ティンラン(丁蘭)、トンラン(董黯)、そしてクォチュウ(郭巨)の名前が取り上げられていることを挙げています。しかしながら、いったん本経が出所の疑わしい経典とみなされると、これらの中国人名は削除され、修正されたものと思われます。
他の幾つかの版を見てみると、経典の内容において完全に改訂されたものがあります。シャカムニブッダ(釈迦牟尼仏)の遺骨と崇拝等の付加が認められ、他の箇所ではさらに母の胎内において胎児として成長する物語が加えられました。このような形式の経典はアジア中に普及し、その内容には種々の異なりがあるけれども、たいていは同じあらましに従ったものです。
中国仏教の長い歴史の中において、「父母恩重経」の原型には中国人の孝行息子らの名前が含まれ、改訂版ではそれらの名前は除外され、その他の多くの版では結局消滅しました。中国大陸、台湾、そして東南アジアの華僑には改訂版「父母恩重難報経」が遺存します。韓国には他の二つの改訂版、「大報父母恩重経」と「父母恩重胎骨経」とがあります。日本には「大報父母恩重経」のみならず最終部に詩を含んだ改訂版「父母恩重経」があります。
1900年には、中国の道士によって、中国のはるか西方、敦煌の石窟番号70号から原型である「父母恩重経(中国の孝行息子らの名前が含まれている)」と最初の改訂版(名前が削除されている)とを含む膨大な量の経書が発見され、1907年にはイギリスの著名な探検家オーレル・スタイン卿によって英国にもたらされました。この重大な発見は、仏教徒たち以外にも多くの衝撃をもたらしました。1932年には、上述の改訂版が日本の「大正新修大蔵経」において出版され、本書の英訳の底本としても活用されました。原典はロンドンの大英博物館(登録番号S2084番)の一部です。
【1403b23】私はこのように聴きました。ある時
比丘と比丘尼、優婆夷と優婆塞たちとすべての天上の神々、竜神、鬼神は集まってきておりました。
彼らは一心に
「誰であれこの世界に生まれた者には、父と母という両親がいます。
父なくして独りで生まれることも、母なくして独りで育つこともできません。
まず誰であれ、母の胎内で十月を経ます。
産声の時を迎えると、子はこの世界にあらわれ、草の上に生れおちます。
それから父と母とは子を育て、いまだ歩むことすら覚束ない彼を乳母車に寝かせ、またふところに抱きかかえます。
父母が(子にやさしい声で)「ハイ、ハイ」とあやす時、微笑みますが、いまだことばを発しません。
おなかが空くとすぐに子は食べ物を求めますが、母無しでは食を取ることもできません。
のどが渇くとすぐに子は飲み物を求めますが、母無しでは喉を潤すこともできません。
母はたとえ自分が空腹の時でも、母はまずい食べ物を食べ、子に美味しい食べ物をすべて与えるのです。
母は子をかわいた〔清潔な〕場所に寝かせ、自分は湿った場所に横たわるのです。
特に母は慈愛をもって子を養育し、また母は、子の十指の爪が汚れているのまで世話するのです。」
「子が飲む母乳の量は八石(斛)四斗(㪷)(約1512リットル)です。
ああ!どのように母に報いることができるでしょうか?」
その時弟子の
「
このことをお説きくださるようお願いします。」
「心して私のことばを聴聞し、そのことに関して注意深く考察しなさい。
私はあなたにそのことを微に入り細に渡り説明いたしましょう。
父母の恩は果てしない空のようなもの、どうすれば報いることができるでしょうか?
もし親孝行で愛情深い子供が、父母のために善い行いができ、仏教経典を書写し、7月15日にウッランバナ(盂蘭盆)という器を整えて、多くの食べ物や飲み物を
その上、もし誰かがこの経典を書写し、人々の中に普及させ、ある時は自らも覚えて暗誦するならば、その人は父母の恩に報いていることになるのです。」
「あなたはどのようにして世話をしてくれた父母に報いるかを知らねばなりません。
毎日、父母はあちこちに仕事に出かけます。
母はいつも井戸から水を汲み、料理をして家族に給仕し、杵をつき、石臼をひきます。
その間、母は折につけて、「もしかすると赤子が泣き叫び、恋しがっていないだろうか。すぐに家に戻ろう。」と心配しては、家に戻ります。
母が家に戻ると、赤子は母を遠くに見るや、乳母車の中で嬉々として頭を振り、または腹ばいになってついて行き、母を呼び求めます。
母は子の方に身をかがめて膝をつき、両手を伸ばして、子の土ぼこりを払い落とします。
それから母は、子に接吻し、胸をはだけて乳房を含ませます。
母は子を見つめ、大いに喜び、子も母を見つめて、大いに喜ぶのです。
お互いは、慈しみと親愛の情にあふれ、いかなるものも、勝ることはできません。」
「やがて、子は2歳から3歳に成長します。
いまや子は歩くことができるようになり、ここかしこと思うままに向かいます。
母でなければ食事時がわかりません。
ときおり父と母とは食事に呼ばれ、ある時にはお餅ややお肉(の御馳走)にあずかりますが、父母は食べないで、それをふところに入れて家に持ち帰り、子に食べさせます。
10回のうち9回は、父母は食べ物を持ち帰ることができ、子供はそれにいつも大喜びします。
しかしながら、たまに父母が、子のために何も持たずに家に戻るようなことがあると、子は何ももらえなかったことを、わがままにも泣き叫び、嘘泣きをするのです。
このようなわがままな子は不孝者であり、必ず罰があるでしょう(すなわち、彼の五体は引き裂かれるのです)。
一方で孝行な子は、わがままではなく、いつも父母を慈しみ、従順なのです。」
「後に子が成長し友人と共にいるようになると、父母は子の髪を櫛でとかし〔成人の髪型に〕髪を整えます。
もし子が良い着物を身にまといたいと望むなら、父母はやぶれた着古しを着て、子には新しい良質の綿布、絹布を着せるでしょう。
ついには子が公私の急用に出かけるようになると、父母は北に南に子を思い、東に西に子を追い、あれこれと心配するのです)。」
「子が妻をもとめ、他の家の女性と結婚すると、父母とはしだいに疎遠になります。
ともに自分たちの部屋で過ごし、お互いに語り合い楽しみます。
いまや子の父と母は、ともに老い気力がおとろえ、ついに子は、常時父母と会いたいと望むこともなく、また(父母と)親しく会話をしようともしません。」【1404a】
「ある時に、父母の一方が亡くなると、残されたかたわれは、空っぽになった部屋を一人で守ることになりますが、それはあたかも、旅人が他人の家に、独り身を寄せ留まっているようなもので、いつも(そこには)恩愛[の気持ち]は、存在しません。
冬の凍える時期に、寒さから身を守る肌着やかけるものさえ持たず、様々な災難に遭遇します。
さらに、年老いて気落ちした片親には、多くのシラミがたかり、夜から早朝まで、眠ることができません。
ついに片親は、(人生に失望して)大きなため息をつき、(自らの不幸に愚痴をこぼし)、そして、「どのような過去のあやまちから、このような不孝な子を産んでしまったのか?」と言うのです。」
「ある時に父母が子を呼び出すと、子は(父母に)怒って猛り立ちます。
彼だけでなくその妻と(彼の)子たちも父母を罵倒するので、〔父母は〕頭を垂れて愛想笑いをするのです。
このような場合は、妻もまた不孝者であり、夫婦の子ども(孫)もまた五体が引き裂かれる罰に値します。
自分の年老いた父母を放置すれば、子の夫婦は、ともに五逆の罪(人や仏の道に反する大罪)を犯しているのです。」
ある時父母に何か差し迫った問題が生じたので子に助けを求めると、子は10回の内1回しか応えてくれません。
子は常に父母に背き、〔次のように〕罵って怒るのです、「さっさと死んでしまえばいいのに、がんばって墓に入らないでいる。」と。
このようなことばを我が子から聴いて父母は嘆き、そしてもだえ苦しみ、涙を流して泣き叫び、目を腫らします。
〔父母は泣きながら、〕「お前が赤子のときは、私たち無しには生き長らえることはできなかった。
他ならぬ私たちがお前を産んだが、〔お前のような子供は〕もとからいないほうが良かった」〔と言うのです〕。
「もしも、ある善男善女が、自身の父と母のために、『父母恩重大乗摩訶般若波羅蜜経』と呼ばれるこの経典の一句もしくは一偈であっても受持し、読誦し、書写したならば、また〔一句もしくは一偈であっても〕目にし耳に届いたならば、あらゆる五逆の罪も完全に消え去り、永遠に残らずなくなるだろう。
そして、諸々の
その時、
着用している大衣を左肩の上にかけて右肩を肌ぬぎ(敬礼の意味を示し)、右膝を跪き、合掌し、進み出て、仏に申し上げました。
「
そこで
「この経典を『父母恩重経』と名づけるのは、もしもすべての生き物が父母のために善い行いをし、この経典を書写し、香を焚き、諸々の
このように
それから彼らは