仏教伝道協会による英訳大蔵経を参照しつつ大正新脩大藏経を基にして現代語訳されました。
浄土三部経(浄土教の諸宗で拠り所とされる基本的な3つの経典)のうち、『大経』(大無量寿経)は、日本の歴史的文献に、最も早い時期に言及されるものです。この経典への初期の言及は、聖徳太子(574-622)の著作にあらわれますし、それに関する講義が日本人僧侶である慧隠(えおん、推古天皇16年[西暦608]から31年間中国留学)により、640年と652年に、宮中で行なわれています。残りの2つの浄土経典、すなわち『観経』(観無量寿経)と『小経』(阿弥陀経)は、奈良時代(710-793)に遡る正倉院の記録の中にはじめてあらわれます。円仁(慈覚大師、794-864)が中国での勉学から帰国した後に、声に出す念仏(阿弥陀仏の名を称えること)を日本に紹介しました。しかしながら、それは天台宗の瞑想や儀礼と結びついたままのものでした。やがて平安時代(794-1185)には、空也(903-972)が京都の一般民衆のあいだに念仏の教えを広めました。また、この時代には、源信(恵心僧都、942-1017)が『往生要集』を著し、念仏の教えが全国に広まっていくようになりました。鎌倉時代(1192-1333)のはじめには、法然(源空、1133-1212)が天台宗を離れて独立した一つの宗として浄土宗を立て、専修念仏(称名念仏のみを行うこと)を説きました。最終的には親鸞(1173-1262)が、阿弥陀仏から信者へと回向された(あたえられた)信心を強調することによって、日本における浄土教を完成させたのです。
親鸞は「自分には弟子はいない」と言いましたが、実際には『歎異抄』著者である唯円を含む多くの熱心な門弟がいました。唯円は、出生年月日はわかりませんが、現在の東京から北東に位置する(茨城県水戸市)河和田というところで暮らしていました。彼は親鸞没後27年にあたる1289年に亡くなっています。『歎異抄』は1280年頃に書かれたようです。唯円がこの小さな書物を著した理由は、この書物そのもの中で、「親鸞なき後に弟子たちの間に起こっている、真実の信心からの逸脱に反論するため」と述べられています。
『歎異抄』は、それが著されて以来ずっと日本人の生活や思想に深い影響力をあたえ続けています。室町時代(1333-1573)には、本願寺8世であり真宗中興の祖とみなされる蓮如(1415-1499)が、次のような「追記」を加えました。「この聖教は私たちの宗の最も重要な文書のうちの一つです。信心において十分に機が熟していない人たちには、むやみに読むことを許してはなりません。」
徳川時代(1603-1868)には、妙音院了祥(1788-1842)が『歎異抄』に関するすぐれた研究を行いました。明治時代(1868-1912)には、真宗仏教の思想家である清沢満之の着想の源泉となっています。以来その影響は、禅宗を含む他の仏教宗派にも広がってきました。かの有名な哲学者である西田幾多郎(1870-1945)は次のように述べています。もし世界に2冊だけ書物を残すとしたなら、「親鸞の『歎異抄』と、『臨済録』さえ持っていれば、私にはそれで十分である」と。(『歎異抄』の大部分が親鸞の言葉の直接の引用なので、西田は『歎異抄』のことを「親鸞の『歎異抄』」と呼んでいたのです。)
『歎異抄』は、それぞれ「序」をもつ2つの部分に分かれており、最後には「後書き」があります。その「後書き」は3つの部分から構成されており、そこでは唯円が再び親鸞、法然、善導(613-681)の言葉を引用しています。上に述べた蓮如の「追記」は、この「後書き」に続いて付け加えられたものです。
『歎異抄』の前半、初めの第1条から10条までのところは、唯円が師である親鸞から直接に聞きとった言葉を個人的に回想したものです。後半、つまり第11条から18条までのところでは、親鸞没後に起こってきた真実信心からの逸脱に対する唯円自身の反論が述べられています。そこで唯円は、自分の主張のさらなる裏づけのために親鸞の言葉を引用しています。「後書き」と蓮如の「追記」との間にある部分は、法然、親鸞、その他の弟子たちに対する不当な処罰と流罪について詳細に記録した「補遺」にあたります。歴史的伝記的に大変興味深く、重要であるので、本書ではこの部分も翻訳しています。
【728a】深く謙虚な気持ちで昔と今の状況について思いをめぐらすと、亡き師から口伝えに教えられた真実の信心からの様々な逸脱が広まっています。私は、これを嘆かずにはいられません。さらに、これから信心を受け継いでいく人たちの心におこるであろう疑いのことを懸念しています。ご縁をいただいた先生に導かれることがなければ、いったいどうやって「易行門」 (易しい仏教の実践)に入ることを期待できるでしょうか。いかなる人も、自分勝手な解釈によって「他力」の教義を損なってはなりません。だからこそ、亡き仲間の信者たちのあいだに疑いが起こらないようにとひとえに念じて書いたものです。
阿弥陀仏の本願(菩薩であったときにたてた誓願)の不可思議なはたらきによって浄土に往生するのだという確固たる信心によって、念仏を称えようという思いが私たちに起こるまさにその時、すべての人を受け入れ、誰も見捨てることのない本願の利益を、共に分かち合えるようになるのです。阿弥陀仏の本願は、老人と若者、善人と悪人を決して分け隔てることがないということ、そして、最も大切なのは信心のみであるということを、私たちははっきりと知るべきです。【728b】なぜなら、本願はもともと、自らの悪行や欲望にまみれた生きとし生けるものを救うためにたてられたものだからです。念仏よりすぐれた善はありませんから、ひとたびこの本願を信じる心が確かなものになれば、その他の善は必要ないのです。また阿弥陀仏の本願をさまたげるほど強力な悪もありませんから、どんな悪も怖れる必要はありません。
私に会うために、ここまではるばる十余りの国ざかいを命がけで越えてこられたあなた方のほんとうの目的は、ただ私に極楽へ生まれる方法を尋ねることにあるのでしょう。しかし、もしも私が浄土へ生まれるための何か秘密の方法を隠しているとか、念仏のほかに大切な経典の言葉を知っていると考えて私のことを恭しく重んじておられるのであれば、あなた方はひどい誤解をしています。もし、そのような考えを抱いておられるのであれば、
わたくし念仏はほんとうに浄土へ生まれる種であるのか、あるいは最下層の地獄へ落ちる業(行為)なのか。そうした疑問について、私は一切何も知りません。たとえ私がなぜなら、もし私がほかの修行に励んで仏になることが確かな者であったにもかかわらず、念仏することによって地獄におちたならば、だまされたと後悔するのはもっともなことかもしれません。【728c】しかし、私は自らがどんな立派な修行もすることができないと分かっていますので、いずれにしても最低の地獄が私の定められた住処ということでしょう。
阿弥陀仏の本願が信じるに足るものであれば、要するに、愚かな私自身の信心は、このようなものです。この先、あなた方が念仏を選びとり信じなさるか、あるいは捨てなさるかは、まったくお一人お一人がお決めになればよいことです。
善人でさえ浄土へ生まれることができるのですから、悪人が浄土に生まれることは、ずっと簡単なことでしょう。しかし世間では普通このように言います。「悪人でさえ浄土に生まれることができるのだから、善人が浄土に生まれることはずっと簡単だろう」と。一見すると、こちらの考えの方が理にかなっているように思われます。しかし、それは本願他力の意図に全く反しているのです。なぜならば、自身の努力によって功徳ある修行をなす者は、完全に他力に身を任せるということが欠けているために、阿弥陀仏の本願から自身を除外してしまっているからです。しかしそのような人も自力の姿勢がひるがえされ、もっぱら他力に身を任せるようになるやいなや、浄土へ生まれることが直ちに確かなこととなるのです。
阿弥陀仏は、私たちのように芯まで欲望にまみれ、他のいかなる修行によっても輪廻から自分を解放することに何の望みも持てない者たちを哀れに思い、そのような悪人が仏の覚りを得ることができるようにするためにこそ本願をたてられたのです。ですから、他力に身を任せる悪人は、とりわけ往生のための正しい因に恵まれているのです。【729a】そういうわけで、聖人はこのように言われたのです。「善人でさえ浄土へ生まれることができるのだから、悪人が浄土に生まれることは、どんなにか簡単でしょう」と。
聖者の道における慈悲と、浄土の道における慈悲の間には分かれ目があります。聖者の道における慈悲は、命あるものを可哀想に思い、助けようとしますが、望んだように完全に救えることはめったにありません。しかし、浄土の道における真実の慈悲は、念仏を称え、それによって速やかに仏となり、生きとし生けるものすべてを大いなる慈悲の心をもって思い通りに救うことにあります。あなた方も御存知のように、この人生において、私たちが他者のためにどんなにあわれみやなさけを感じても、私たちが望むように他者を救うことは難しいのです。私たちの慈悲は徹底しないものなのです。そういうわけで、念仏を称えることだけが、大慈悲心の、すべてをおさめとっていく働きの表現なのです。
わたくしなぜなら、数え切れないほどの生まれ変わりを経てきた間の縁を思うと、生きとし生けるものはみな、現在あるいは過去世における私の親か親類にあたるからです。そして、私たちは次なる生において仏となって、そのすべてに救いをもたらすことができるのです。
もし念仏が私たち自身の努力によってなされる功徳ある行であったならば、私たちはその功徳をふりむけることによって、両親を救えることになるのかもしれません。しかし、それは不可能なのです。私たちが自らの努力を捨てて直ちに浄土の覚りを得るならば、そのときは、阿弥陀仏の神通力と巧みな手立てによって、私たちに近しい縁のある人々がたとえ六道四生(様々な迷いの生)のいずれかに苦しんでいたとしても、まず第一に彼らを救うことができるようになることでしょう。
念仏の行にもっぱら身を捧げている人々の間で、誰が私の弟子であり誰が他の者の弟子であるということについて、争いが起こってくるというのは信じられないことです。【729b】わたくしもし私が、私自身のはたらきかけによって、他の者たちに念仏を称えさせることができるのだとしたら、彼らは私の弟子だといえるかもしれません。しかし彼らは阿弥陀仏のはたらきかけによって念仏を称えているのですから、彼らを私の弟子ということはまったく理に合いません。
縁があれば、師と弟子は必ず出遇います。縁が尽きれば、師と弟子は必ず別れるものなのです。それにも関わらず、もし現在の師を離れ、他の師のもとで念仏を称えるのであれば、浄土への往生は決して成し遂げられない、と言って信心深い人たちを混乱させる者たちがいます。これについては、あきれて言葉もありません。そのような者たちは、阿弥陀仏によっておこされた信心を、わがもの顔で撤回しようとでも思っているのでしょうか。何度も言いますが、このような考えが広まることは絶対にあってはなりません。ひとたび本願の自然な力に調和するなら、私たちはおのずと阿弥陀仏への恩と諸師への感謝の念を抱くようになることでしょう。
念仏は、何ものにもさまたげられることのない唯一の道です。それはなぜかといえば、真実信心の人を前にして、天と地をつかさどる神々が尊敬の念をもって頭をさげるばかりでなく、魔界によって、あるいは異なる教えの信奉者たちによっても、決して妨害されることがないからです。いかなる罪悪も信心の行者のうえに報いをもたらすことはできません。また、その人がなすいかなる善行も念仏に及ぶことはないのです。だからこそ私は、念仏は唯一のさまたげられない道だというのです。
信者にとって念仏を称えることは宗教的行為でもなければ、道徳的善行でもありません。それが宗教的行為でないのは、自分自身の意図によってなされるものではないからです。それが道徳的善行でないのは、自分でしていることではないからです。念仏は完全に他力からわきおこるものであり、まったく自身の努力を超えているので、信者にとって念仏を称えることは宗教的行為でも道徳的善行でもないというのです。
【729c】「念仏を称えても、私は嬉しくて踊り出したい気持にはめったになりませんし、浄土に生まれたいという熱烈な思いもおこりません。これはどうしてなのでしょうか」と私は尋ねました。
「その問いについて、わたくししかし、このことについてより深く考えてみると、私たちが願うほどに喜びに踊り出したいような気持になれないからこそ、私たちが浄土に往生するということは、より一層確かなものだということに気づくのです。この問題については、そのように考えるべきです。私たちの心を抑圧し、喜びから遠ざけるのは煩悩なのです。しかしこのことを既に知っておられた阿弥陀仏は私たちのことを「煩悩が身に備わった普通の人間」と呼ばれたので、哀れみ深い他力の誓いは、まさにそうした私たちのような人間のためにたてられたのだと気づきます。だからこそ、なおいっそうこれは信頼に値するものだと感じるのです。
さらに、すぐにでも浄土に生まれたいという気持がないとき、少しでも病気になったりすると、私たちは死の恐怖に不安を覚えるでしょう。これもまた同様に煩悩のせいです。数え切れない劫(カルパ、極めて長い時間の単位)に渡って生死流転を繰り返し、苦しみにあふれているこの世界が去りがたく感じられ、いまだ生まれたことのない阿弥陀仏の浄土を願えないほどに煩悩は盛んなのです。私たちはこの苦しみにあふれた世界との様々な関係を尽くし、ただどうしようもできずに命を終えていくとき、たとえこの世が名残惜しくても浄土に生まれるのです。だから阿弥陀は浄土に生まれたいと差し迫った希望を持たない者たち全てを哀れむのです。このことを考えると、私たちはいかに阿弥陀仏の偉大な慈悲深い誓いが信頼に値するものか、どれほど浄土へ生まれることが確かに約束されているかということが分かるでしょう。【730a】反対に、もし私たちの心が、浄土へ生まれたいという強い気持で歓喜したとするなら、私たちには煩悩など全くないというおかしなことになってしまいます。」
「念仏の意義は、作為が全くないところにあります。なぜなら、それは計ることも、言い表すことも、構想することもできないものだからです」と師は言われました。
今から何年も前になりますが、しかし最近、そうして直接教えを聞いた門弟たちの導きのもと、念仏を称えるようになった大勢の老人や若者がいる中に、そういった根拠のない教義のいくつかを以下に列挙します。
文字も読めない念仏行者に会うと、「あなたは本願の不思議を信じて念仏を称えるのか、それとも名号の不思議を信じて念仏を称えるのか」と尋ねて脅かす人がいます。彼らはその二つの不思議の意味をはっきり示さずに、人々を動揺させているのです。このような区別については注意深い検討が必要です。
阿弥陀仏は本願の不思議なはたらきを通じて、私たちが心に留めておきやすく称えやすい名号に思い至り、それを行う人たちを浄土に迎えようと約束しました。ですから、阿弥陀の大いなる慈悲のはたらきによって自分たちが輪廻から解放される、と信じて私たちは念仏を称えるのです。【730b】このように阿弥陀仏のはからいによると理解することで、私たちは阿弥陀仏の本願に完全に合致して、自己のはからいの入る余地がまったくない真実の報土(浄土)に往生するのです。この意味においては、もしその本願の不思議を信じるならば、それは名号の不思議をも表しているので、本願の不思議と名号の不思議は一体であって、二つのものではないのです。また、善い行いは往生の助けとなって、悪い行いは往生の障害になると思うような人たちは、そのように区別することで本願の不思議を信じないまま、自分の努力によって念仏を称えています。そういう人たちは、名号の不思議を本当に信じる心が欠けています。ですが、たとえ信じる心が欠けていても、その人たちはそれでも西方浄土の辺地(懈慢、疑城、胎宮とも呼ばれます)に往生するでしょう。そして最終的には、果遂の願(浄土往生を願う人を必ず浄土に生まれさせるという阿弥陀仏四十八願のうちの第二十願)のはたらきによって、報土に往生するでしょう。こういう全てのことは、名号の不思議によって達成されます。この不思議は本願の不思議と決して違うものではありません。というのも、両者は一体だからです。
経典や論書を読んだり学んだりしない人たちは浄土への往生を成就できるかどうか確実ではない、という見解を持っている人もいます。この見解は、真剣に受けとめる価値がありません。他力の真実を明らかにする様々な経典は、本願を信じて名号を称えることによってのみ私たちが確かに仏になる、と強調しています。ですから、浄土に往生するために、他に何を学ぶ必要がありましょうか。
確かに、本願の趣旨を把握したいけれども、この真実に確信がないという人たちは一生懸命に学ぶべきです。しかし、一通り経典や論書を読んだり学んだりした後、それでも本当の意味を把握しそこねているなら、ほんとうに気の毒ではありませんか。【730c】文字が読めず、経典や論書が意味するところに関して無知な人たちでも、名号は簡単に繰り返し称えることができます。だから易行と呼ばれるのです。それに対して聖道は、学問に基いて悟るので難行と呼ばれます。さらに、「誤って富や名声という考えにとらわれ、学問的な追求におぼれているような人は、たとえそれが誰であっても、浄土にすぐ往生するのかどうか疑わしいところです。」
このごろ、専修念仏の門弟たちと聖道門の信奉者たちが、それぞれ自分の宗の方が優れていて相手の宗は劣っているというような、教義についての論争に関わっています。だから、教えに敵対する人たちがあらわれたり、教えに対する誹謗の罪も犯されてしまうのです。これは結局、自分の教えをののしることと同じではないでしょうか。
もし他の宗派の人たちが、「名号は知力の低い人たちのためである。この教えは浅はかで劣っている」と言って私たちをあざ笑っても、あらゆる論争を避け、「私たちのように才能も乏しく、文字一つも読めない無知な者は、信心によって救われると信じています。ですから、たとえ高い能力を持つ方々にとっては卑しく見えても、私たちにとってはこれが最上の教義です。他の教えの方が優れているとしても、それらは私たちの力の及ぶ範囲を超えているので、私たちには実践できません。すべての仏の本来の意図は、あらゆる人を輪廻から救うことですから、他の見解を持っている方々は、私たちを邪魔することのないようお願いします」と応えるべきです。もしその人たちに対して敵意を持たずに対応するなら、誰が私たちに危害を加えましょうか。
さらに、「議論のあるところには、あらゆる煩悩が起こる」と『宝積経』に説かれています。この一節が証明しているとおり、賢明な人はできるだけ論争から離れているべきです。
【731a】故
「この教えを信じる人もいますが、謗る人もいるでしょう」と私がこの教えを信じている一方、これをけなす人もいます。こうしたことから、だからこそ、私たちは、自分たちの往生がいっそう確実であることを信じるべきです。もし仮にこの教えを悪く言う人がいなければ、私たちは、なぜ信じている人がいるのに謗る人はいないのかと不思議に思ってしまいます。私は、この教えが必ず人に謗られなければならないと言いたいのではありません。ただ、
今日では、議論や論争に関わって、他人からの批判を論破する準備のためだけに学問しているような人たちがいます。しかし、学問すればするほど、学者という名にふさわしいのは、自分は才に恵まれない人間であるのに往生できるのだろうかと疑う人々に対して、本願は善人と悪人、あるいは清らかな人とそうでない人などという区別を一切しない、ということを説明する人だけです。学問は必須であると主張して、私利私欲に溺れることなく本願にしたがって念仏している人さえもおびやかすような者は、悪魔のように教えの妨害をなす者であって、そのような人は他力に対する信心が欠けているだけではなくて、きっと他人を誤った方へと手引きしてしまうのです。【731b】亡き師である同時に、阿弥陀仏の本願にしたがっていないという理由で、そのような敵対者は哀れまれるべきなのです。
阿弥陀仏の本願を理由に悪をおそれない人は、本願の不思議な力を過信しているから、往生することができないと言われています。このように言う人たちは、自分が本願を疑っていることや、宿業(過去と現在の生における善悪様々な行為)に対して無知であるということをさらけ出してしまっているのです。善の心が起こるのは過去の善い行為のおかげであり、一方で悪の心は、過去の悪の行為がはたらきかけることによって起こるのです。
故「兎や羊のたった一本の毛先に付いている塵ほどの、極めて小さな悪い心でさえ、過去の行為なしに起こりえない。」
またあるとき、
「
「はい、信じます」と私は答えました。
「もしそうなら、私が何をするように頼んでも、それに従うか。」
これに対して、私はつつしんで同意しました。
「例えば、千人殺してくれるか。もしそうすれば、お前の往生は確実だ」と
「お言葉ではございますが、今のところ、たった一人を殺す能力さえ私には無いように思われます」と私は答えました。
「もしそうなら、一体なぜ、「このことから、お前は次のようなことを学ぶべきである。もし自分が願うことを何でもできるなら、往生するために千人殺すように言われたとして、いくらでも人を殺すことができるだろう。【731c】しかし、自分の中には、たった一人ですら殺すような業縁(行為を起こさせる様々な条件)がないから、殺人を犯すことができないのである。これは、自分が善い心をもっているからではない。たとえ自分は人を殺すつもりがなくても、百人、さらには千人でさえも殺してしまうということが起こり得るのだ。このことは、善い心であれば往生できて悪い心ならば往生できないと私たちが誤って考えてしまうために、本願の不思議な力によってのみ救われることが分からないのだと教えてくれる。」
かつて、誤った考えに陥ってしまった人がいました。その者は、あらゆる人をすくいとる本願は悪を為した者を救うのだから、往生するための方法として悪事をはたらくべきである、と説いていました。その人が様々な悪事をはたらいているという知らせが「解毒剤を持っているという理由だけで、毒におぼれてはいけない」と。このお言葉によって、悪は往生を妨げ得るということを意図なさったわけでは決してありません。
「もし道徳的な戒めを守ったり、僧伽のさまざまな規則に従ったりすることによってしか本願を信じることができないとしたら、私たちは一体どのように生死流転を離れることができるのでしょうか。私たちのように不誠実な者は、本願に出遇うことによってのみ、本願に完全に身を任せ(頼る)ことが実現するのです。とはいえ、その身にそれを行う原因がそなわっていなければ、悪事を為すこともできないはずです」と
また、次のようにも言われています。「このことは、海に網を引いたり、川で釣りをしたりして生計を立てる人たち、山や野原で鳥や獣を狩る人たち、交易をしたり、田畑を耕したりする人たち〔みんな〕に当てはまります。」
【732a】ところが、今日では、まるで善人だけが念仏を称えることができるかのような顔をして、信心深く浄土往生を求めているような態度をとっている人たちがいます。そのうえ、その人たちは、罪を犯した者は入ってはならないと道場に張り紙をしています。このような人たちは、外向きには賢くて熱心なふりをしているだけで、心の中には嘘偽りを抱いているのではないでしょうか。
本願を過信することによって犯してしまった悪でさえ、過去の業によるものです。ですから、もし私たちが善い行為も悪い行為もすべてを業の報いにまかせて、ただ本願だけを信じるなら、私たちは本当に他力に順じているといえるのです。『唯信抄』が、「私たちは阿弥陀仏の力がどれほど大きいか測ることができないのに、自分は罪深すぎるから救われないなどと、どうして判断することができるのでしょうか」と私たちに注意していることを、心に留めておかなければいけません。
本願を信じる心が確かであればあるほど、他力に対する私たちの信頼はいっそう確かなものになるのです。もし私たちが悪業や煩悩を断ち切った上で本願を信じることができるとしたら、おそらくその方がより望ましいことでしょう。本願に頼りすぎるような必要もなくなるからです。しかし、もし仮にすべての煩悩を断ち切ることができたとしたら、私たちはすでに仏となっているはずです。そして仏にとっては、5劫の長時間に渡って考えぬかれた本願も必要ないはずです。本願に頼りすぎるなと他人に忠告する人たち自身も、煩悩や不浄に満ちているように見えます。そういう人たちもまた、本願に頼りすぎているのではないでしょうか。一体、どのような悪が「本願に頼りすぎる悪」と言われ、どのような悪が「本願に頼りすぎていない悪」と言われるのでしょうか。結局、こんなことは浅はかな議論ではありませんか。
80億劫をかけて積み重ねられた重い悪業も、たった1回の念仏によって消えると信じるべきであると主張する人たちがいます。
【732b】この主張は、次のような人について言っているのでしょう。それは、十悪(10の悪業)や五逆(5つの重罪)を犯したうえに今まで1回も念仏を称えたことがなかったけれども、死の直前になって初めて正しい道を示してくれる善い師に会う人です。そして、この師は、1回の念仏で80億劫の罪が消え、10回の念仏では800億劫もの重罪を消し往生できる、と教えるのです。一念と十念についての『観経』の中のこの一節は、おそらく十悪と五逆の重さを思い知らせるために言及されたのでしょう。それは滅罪の利益を示していますが、私たちの信心に及ぶものではありません。なぜなら、阿弥陀の光明によって一念の信が起こるその瞬間、その人はダイヤモンドのような信心をあたえられ、すでに定聚の位(必ず仏となることが決まった位)に到達させられているからです。命が終わるときには、あらゆる煩悩や障りが、生も死もないという覚り(無生忍)へと転換されます。
私たちのような浅ましい悪人が、かの悲願なくして、一体どのように輪廻から救われることがありえましょう。この考えを心に留めておいてください。そして、私たちの一生涯にわたる念仏はすべて、阿弥陀仏の大悲に対する恩義と阿弥陀仏の徳への感謝を表すためだけのものと考えてください。
念仏するたびに自分の悪業による結果を消すことができると確信している人たちは、実際には、往生のために自分の力で悪業による結果を消そうとしているのです。もしこれが本当であるならば、人生の中で思い巡らすことはすべて、私たちを輪廻に縛りつけます。ですから、まさに死を迎えるそのときまで一瞬たりとも中断することなく念仏し続けることでしか、往生はできないことになります。しかし、過去の業による結果には限りがありますから、予期せぬ事故に遭ったり、病気に苦しめられたりして正しく念仏できずに死んでしまうかもしれません。そのような場合に、念仏することは難しいでしょう。だとすると、私たちは、その間に犯した罪をどのようにして消すことができるのでしょうか。【732c】そのように言う人たちは、悪業による結果が消されなければ往生できないとでも言い張るのでしょうか。
予期せぬ出来事のせいで、過ちを犯したり、念仏せずに死んでしまったりするとしても、すべてをおさめとって誰も見捨てることのない本願(摂取不捨の願)を信じるならば、私たちはただちに往生することができるのです。さらに、たとえ最期のときに念仏することができたとしても、それは覚りの瞬間が近づくにつれて阿弥陀をいっそう信じ、ただ感謝を表現しているだけのことです。過去の罪の結果を消そうと望むのは、やはり自力の心であり、最期に平静を保ちたいと祈る人の意図することです。このことは、その人が他力の信心を欠いていることを示しています。
いまだ煩悩に満ちている身であるにもかかわらず、覚りを得たと主張する人たちがいます。このような見解は、私たちにとって受け入れがたいものです。この身体のままで成仏することは、真言宗における秘密の教えの真髄であり、三密(身・口・意の3種類の密教の行)の結果です。六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)を清らかにすることは、『法華経』の一乗思想によって説かれていて、四安楽の行(身・口・意・請願の4種類の安楽行)によって実現されます。しかし、これらはみな、難行の道における一段階なのです。それは特に能力に恵まれた人によってのみ行われうるものであり、瞑想によってのみ実現される覚りに属します。浄土教における他力の教えの基本原理は、信心が確定する道にしたがい、来世で覚りを得るということです。そのうえ、これは能力の劣った人によっても歩まれうる易しい道であり、善人と悪人を区別しない教えなのです。
さらに、一生の間に煩悩や覚りの妨げを消し去ることはほとんど不可能ですから、真言宗や天台宗の方法を実践している徳の高い僧侶でさえ、来世で覚りを得ることを願っているのです。まして、戒律や智慧を欠いている私たちにとっては、これは当然です。しかし、そうした私たちも、阿弥陀仏の本願の船に乗ることによって、生死流転の苦しみの海を渡ることができるのです。浄土の岸に到着した瞬間、すぐさま煩悩の黒雲が晴れて、光り輝く覚りの月が現れるでしょう。【733a】何ものにも妨げられることなく十方(あらゆる方角)に輝く光と私たちとが一つになり、生きとし生けるものを救うことができたとき、はじめて私たちは覚りを得たと言うことができるのでしょう。
この世の身体をもちながら覚りを得たと主張する人たちは、これらの身体的特徴こそが、この世での覚りを示すものです。
和讃には次のように言われています。
(ダイヤモンドのように堅い信心が定まると、その瞬間、阿弥陀仏の心の光が私たちをおさめとって護り、私たちは永久に生死流転を離れるのです)。
この和讃は、次のような意味です。信心が定まるその瞬間、私たちは本願によっておさめとられ、決して見捨てられることがないのだから、もう二度と六道をさまようことはないのです。ですから、私たちが「永久に生死流転を離れる」と言われているのです。このことを「覚りを得ること」と混同してはなりません。嘆かわしいことです。「浄土の教えにおいては、この世に生きているあいだに本願を信じる心をいただき、浄土において覚りを得るのだと、私は師から学びました」と。
念仏の教えを信じる者は、たまたま腹を立ててしまったり、悪いことをしてしまったり、仲間と口論をしてしまったりしたとき、そのたびごとに必ず回心すべきであると主張する人たちがいます。このような見解は、悪をしりぞけて善を実践しようとするものです。
ひたすら念仏だけを実践する信者にとって、回心というのは一度きりの出来事です。それは次のようなときに起こります。いままで本願の他力という真実の教えが分からなかった人が、阿弥陀仏の智慧のおかげで、自分の日頃の善悪の判断では浄土に往生できないと実感し、それまでの見方や考え方を捨てて、それ以後は本願だけに頼るようになるときです。【733b】これが回心の本当の意味です。
往生するために、もしもすべての過ちを朝夕必ず回心しなければならないのならば、すべてをおさめとり誰も見捨てることのない本願が、意味のないものになってしまうでしょう。人の一生は、回心したり、柔軟で忍耐強い心になったりする間もなく、息継ぎするほどの間に終わってしまうかもしれないからです。
そのような人たちは本願の力に対し、口先では調子のよいことを言います。しかし、心の中では、本願はすべての人に意味があると言われているけれども、本当のところは善人だけが救われるのだろうとひそかに考えています。本願の効力を疑い、他力を信じる心が欠けている人たちが、そういった考えのために西方浄土の辺地に生まれてしまうというのは、残念なことです。
ひとたび信心が定まると、往生は阿弥陀仏の慈悲によって達成させられるのであって、自分自身の努力によるのではありません。自分の悪業を痛感するにしたがって本願に頼れば頼るほど、私たちの中におのずから柔軟で忍耐強い心が起こってくるでしょう。
往生に関するすべてのことについて、私たちは賢いふりをすることなく、阿弥陀仏の慈悲に対する深い恩をいつもありがたく心に留めておくべきです。その当然の結果として、念仏が称えられます。私たちの立場で企図しないことを、「自然(じねん)」と言います。これこそが真の他力のはたらきです。【733c】にもかかわらず、何か別の「自然」があると知ったかぶりをして言う人たちがいると聞いています。非常に残念でなりません。
西方浄土の辺地に生まれるものは、最終的に地獄に堕ちると言う者がいます。このような考え方は、いったいどの経典のどこに見つけられるのでしょうか。こうした主張が学者のふりをした者によってなされたことは、嘆かわしいことです。一体どういう料簡で経典や注釈書を解釈したらこうなるのでしょうか。
信心のない者は、本願に対する疑いのために、西方浄土の辺地に往生するが、しかし疑いの罪が尽き果てたとき、そうした人々も真実の報土において覚りを得るのだ、と師から聞きました。真実の信心の者は少ないので、ほとんどの信者に対しては方便の化土に往生することを勧められます。ですから、もし彼らの全ての願望が最終的に無駄になると言うのであれば、それは彼らを間違った方向に導いたと
仏教の教団に寄付した金額によって、その人が大きな仏になったり、小さい仏になったりするという人々がいます。このような見解は全く無意味で、ばかげています。そもそも、仏の大小を定めるべきではありません。なぜなら、浄土の教主(阿弥陀仏)の身体の大きさが経典に描かれるとき、それは仏の精神的な身体について描写している方便だからです。
阿弥陀仏は究極の真実の覚りをあらわしており、長い短い、四角い丸いといったあらゆる形、そして青黄赤白黒といったあらゆる色も超えているので、その身体の大小を定めることはできません。
念仏を称えると、化仏が現れ、その姿を見ることができると経典に書かれています。これが、大きい声で念仏すると大きい仏、小さい声で念仏すると小さい仏を見るということが一般に信じられるようになった要因でしょう。【734a】最初に述べたような誤解は、このような世間一般に信じられている通念から発生したに違いありません。教団への寄付は、布施の修行とみなされるべきです。しかし、もし信心が欠けているならば、仏や師に対してどんなに素晴らしい寄付をしようとも、何の価値もありません。逆に、紙切れ一枚や少額のお金さえ寄付できなくても、深い信心によってその人の心が他力に捧げられているのであれば、その姿勢は本願の意図に合致しています。
このように、仏法を大事にするふりをして同朋を脅かし従わせようとする者たちによる真実の信心からの逸脱は、すべて世俗的な強欲に起因するのではないでしょうか。
以上のような誤解が起こってきたのは、信心からの逸脱によることが確かです。今は亡き師、あるとき、「
もしなぜなら、しかし往生の信心に関しては、全く違いがありません。なぜなら
彼らはそれでも納得しなかったので、師である【734b】
私の信心は如来から授けられたものです。そしてですから、それは同じひとつの信心です。別の信心を持つ方は、わたくし
このことから察するに、今もなお、一心に念仏のみに身を捧げる門弟たちの中に、
私が述べてきたことは、すべて不要な繰り返しに過ぎませんが、それでもこれを書き記しました。枯葉の上の露のような私がまだ生きながらえている間は、仲間の信者の中に疑いの声を聞けば、またそれは、私の死後にさらなる混乱が起きるのをおそれるからでもあります。もしそのような誤った考えを述べてあなたを誤解させようという信者がいたならば、亡き師の深い確信と一致し、大切にされていた聖教を注意深くお読みになるべきです。
私たちの考えでは、全ての聖教には真実の教えと、方便の教えが混ざり合っています。師のほんとうの意図は、あなたが仮のものを捨てて実を取り、方便を置いて真実にしたがうことです。聖教を誤解しないように、十分に注意するべきです。【734c】真実の信心の規範として、重要な文章をいくつか選んでこの本に書き添えました。
師がかつてよく言われた言葉です。
阿弥陀仏が5劫(という長時)に渡る深い思惟の後にたてられた本願について思いを致すとき、わたくし私が背負う多くの悪業から私を解放しようとたてられた阿弥陀仏の本願は、なんと慈悲深いことでしょうか。
師のこの言葉をもう一度考えると、私は私たちは生死流転に巻き込まれた平凡で愚かな人間であり、はるかな過去から現在に至るまで輪廻の中で永久にもがき続けてきており、そこから自分を解放する術を持っていないということに、私たちは気づくべきです。
このように、自らを実例とされたすなわち、自分たちの罪悪の深さと、阿弥陀仏の御恩の広大さに気づかないという無知です。私と同じように他の人たちも、阿弥陀仏の御恩を意識することなく、善悪のことばかり話しています。
私は善悪ということについて全く知りません。もし私が、阿弥陀仏が知っているのと同じぐらい十分に善を知り得たならば、私は善を知っているといえるかもしれません。そしてもし私が、阿弥陀仏が知っているのと同じぐらい十分に悪を知り得たならば、私は悪を知っているといえるかもしれません。しかし、私たちはみな煩悩が身に備わった普通の人間であり、私たちの世界のあらゆるものは燃えている家のように無常なのです。あらゆることは、幻のようで、虚ろで、そこには何の真実もありません。ただ念仏のみが真実です。【735a】
確かに、私自身も他の人と同じようにつまらないことばかり口にしています。その中で最も痛ましいのは、私たちの中で信心の意味について話したり、他の人に説明したりするときに、一部の人が、反対する人を黙らせ議論を終わらせるためだけに、師が言われなかった言葉を持ち出すことです。これは最も嘆かわしいことです。そして私たちは、この点について注意深く識別しなければなりません。
これまで述べてきたことは全て私自身の言葉ではありません。私は経典や注釈に通じていませんし、教義の深みを把握してもいませんので、おかしく聞こえるところもあるかもしれません。しかし、今は亡き幸いにも念仏を称えている人が、ただちに真実の浄土(報土)に生まれずに、その辺地に留まってしまうとしたら、なんと残念なことでしょうか。
私たちの伝統の信者の中で信心の異なりがないようにと、泣く泣く筆を執ってこれを書きました。これは『歎異抄』(信心の異なりを歎く小論)と呼ばれるべきでしょう。むやみに公開されるべきものではありません。
すると、
以下は、告訴され、根拠のないうわさを証拠として有罪とされた人たちです。【735b】
「罪名「罪名
こうして合計8人が流罪となりました。死罪なった4人は
これらの処罰は、二番目に高い宮廷階級を持つ尊長法印(高い僧侶階級)によって言い渡されました。
それゆえ、彼は「禿」という字を自分の姓とし、これには後に公式の許可があたえられました。その申請書は今もなお外記庁(公文書が保管されているところ)に保管されていると言われています。流罪以後、
この聖教は私たちの宗派が持つ、最も価値ある文書のうちの一つです。信心において十分に機が熟していない者たちは、これを読むことをむやみに許されてはなりません。
釈