仏教伝道協会による英訳大蔵経を参照しつつ大正新脩大藏経を基にして現代語訳されました。
宝唱の『比丘尼伝』は、一冊にまとめられた中国人の比丘尼(尼僧)の伝記として唯一のものです。西暦313年から516年という203年の間の、浄撿に始まり法宣に終わる65人の尼僧に関する物語を収録しています。これは六朝期(222~589年)にあたり、仏教が中国の土壌にしっかりと根付き、中国人に広く普及した時期でした。
仏教の教えに影響され、男性信者と同じくらい熱心な信仰心を持った女性信者が現れ始めました。これらの女性信者たちは、出家の托鉢行者として仏教の実践のみに身を捧げたいと望んでいました。これは仏教が中国に広まった際に起きた自然ななりゆきでした。ですが、仏教の伝統において、比丘尼になることは、けっして簡単な試みではありませんでした。
ブッダは不平等な社会システム、とりわけインドに古くからあるカースト制を非難しました。社会全体でのカースト制を廃止する立場にはありませんでしたが、自分の教団の範囲内では、彼は一貫してそれに反対の立場で説法し、行動しました。ブッダは、人の高貴さや粗野さは生まれによって決まるのではなくて各人の行いによって決まるのだと宣言し、元のカーストの如何に関わらず誰にでも、自分の教団への門戸を開きました。誰もが、サンガ(僧院のコミュニティー)の構成員として迎えられ、その内部で、平等な権利や立場を享受しました。
ですが、女性は、ブッダに帰依するというその同じ特権を与えられませんでした。ブッダは社会における女性の重要性を見過ごしていたわけではなく、多くの場面で女性をよく賞賛しました。実際、女性信者たちがブッダの教えを広めるにあたって果たした役割は、教えの実行という点のみならず、僧団への物質的な支援を行うことに関しても、決して小さくはありません。
文献によれば、女性のサンガ入団への許可を、ブッダは当初はとてもしぶっていました。1世紀頃にさかのぼる多くの文献は、女性がサンガに登場することによってこの世界における仏教の存続が500年に縮まるであろうという不吉な予言を含んでいます。
ブッダの叔母で育ての親でもあったマハープラジャーパティーは、他の多くの釈迦族の王家の女性たちと同様に、ブッダの人格や新しい教えの奥深さの力にうたれ、この新しい信仰へと改宗しました。ですが、彼女がサンガに参加することへの許可を求めた時、ブッダは拒絶しました。ブッダのいとこであり彼の主要な弟子の一人でもあったアーナンダ(阿難)が仲立ちし、彼女のために繰り返し請願しました。それにより、ようやく、ブッダは女性が教団に入ることに同意しました。
ですが、ブッダがそれに同意したのは、比丘尼は「八重法」によって暮らすという条件付きでした。これは、女性の僧院生活者が遵守すべき通常の規則――それは男性の僧院生活者が遵守すべきそれに比べてより厳しくて数も多いのですが――に追加された、女性に特別な規則です。このようにして、サンガへ入団したいと申し出たかの女性は、真摯で、確固たる決意を示したのでした。
八重法の規定は以下の通りです。(1)100歳の比丘尼であっても、比丘に会う時には――彼がいかに若く、新米の比丘であったとしても――立ち上がり、彼のために座席を用意したのち、敬礼すべきである。(2)比丘尼は比丘を叱ったり中傷してはならない。(3)比丘尼は比丘について欠点を非難したり過ちを指摘してはならない。たとえ比丘は比丘尼にそうすることがあったとしても。(4)戒(道徳的戒め)を学んだ式叉摩那(比丘尼見習い)は、比丘から具足戒を受けねばならない。(5)もし比丘尼が僧残罪(一時的な破門という罰が与えられる重い罪)を犯したならば、半月に一度行われる会合で、両サンガ(比丘と比丘尼のサンガ)の面前で罪を懺悔告白しなければならない。(6)比丘尼は半月に一度、比丘に教誨師となってもらうようお願いせねばならない。(7)比丘尼は比丘と同じ場所で夏安居(夏籠もり)を過ごしてはならない。(8)夏安居が終わったのち、比丘尼は比丘のもとで罪を懺悔告白せねばならない。
こういう厳しい追加規程にもかかわらず、マハープラジャーパティーはそれらを非常に喜んで受け入れ、最初の比丘尼となりました。ブッダの成道から14年目のことでした。
アショーカ王の治世の間(紀元前265~238年あるいは273~232年)、マヘーンドラ長老とサンガミッタ長老尼によって、比丘尼のサンガ、つまり尼僧の僧団はインドからスリランカへと伝播しました。仏教をスリランカに布教するためにアショーカ王に派遣されたマヘーンドラは、デーヴァーナンピヤ・ティッサ王(紀元前247~207年)を仏教という新しい信仰に改宗させ、スリランカに比丘のサンガを作らせ、その使命を立派に果たしたのでした。
かのシンハラ(スリランカ)の王の姪であるアヌラー皇女も、僧団の一員となりたいと望みました。そこで、かの皇女と王族の従者たちに出家の儀式を執り行うために、その職能のある比丘尼をスリランカへと派遣するよう、パータリプトラに伝言が届けられました。こうすることが必要だったのは、比丘尼の参加なしに比丘単独では比丘尼見習い(式叉摩那)を比丘尼にすることはできないと、律(僧院内での規則)が規定しているからです。この招聘により、サンガミトラ、および、十全な資格を得てかつ必要定数を満たした比丘尼たちが、アヌラー皇女に出家の儀式を行うためにスリランカに派遣されました。彼女はかの国での最初の比丘尼となり、かくして、かの地で尼僧の僧団が確立されたのです。
5世紀中頃に、スリランカの比丘尼のサンガは中国に伝えられました。比丘尼のサンガは現在でも中国に現存しますが、その元となった国(スリランカ)では、もはや存在しません。429年にシンハラの比丘尼が中国に到着する以前にも、中国には仏教の尼僧がいました。ですが、彼らは『律』に規程されているように具足戒(より高度な出家儀式)を比丘と比丘尼の両方のサンガから受けていなかったので、十分に受戒した比丘尼とは考えられていませんでした。
本書に見られるように、浄撿は、仏道に生涯身をささげた最初の中国人女性です。彼女はジュニャーナギリ(智山)という名の比丘から、彼がカシュミーラに帰還する317年より前ごろに、十戒を受けました。ですが、浄撿はこの段階では比丘尼ではなく十戒を保つ人(沙弥尼)とみなされました。十戒を受けただけでは式叉摩那(適切に受戒した女性の新人出家修行者)とはなれないのです。
晋朝(265~420年)の咸康年間(335~342年)に、中国人の僧である僧建は、『摩訶僧祇尼羯磨』とその『戒本』(〔煩悩からの〕解放を得るための諸規則)を、月氏国で得ました。これらは升平元年(357年)に中国語に翻訳されました。これらの『律』の書物を用いて、外国人沙門であるダルマグプタ(曇摩羯多)は、中国人の比丘尼に具足戒を授けるための戒檀を設立しました。ですが、中国人沙門である道場は、その具足戒の儀式は『戒因縁経』に規程されている規則とそぐわないという理由でもって、反対しました。
ですので、比丘の集団から比丘尼として具足戒を受けたのは、この浄撿とその他3名の中国人女性が初めてで、それは泗水に浮かべられた小舟の上でのことでした。(これはスリランカの習慣の名残です。こんにちでも、受戒の儀式は、しばしば、コロンボ近郊のケラニ寺前のケラニ川に係留された小舟の上で行われます。)これのみが、その当時、女性が受戒することができる唯一の手段だったのです。なぜなら、〔比丘と比丘尼という〕二つの〔サンガからの〕受戒儀式という必要条件を満たすための専門の比丘尼がいなかったからです。これらの必要条件が満たされたのは、シンハラ人の比丘尼が429年に中国に到着した時、とりわけ、デーヴァサーラー長老尼を筆頭とする11人のシンハラ人の比丘尼から成る第2の一行が433年に中国に到着した時でした。
デーヴァサーラーとその一行のシンハラ人比丘尼たちは、比丘たちの協力も得て、〔比丘と比丘尼の〕両方によって執り行われた正式な受戒の儀式を通して、中国に比丘尼の僧団を初めて確立しました。この仏教の歴史上の重要な出来事は、本書『比丘尼伝』などといった中国仏教の書物だけに述べられているのみならず、中国の正史にも、明確な形で正式に記録されています。
もし、比丘たちのみから具足戒を受けた最初の中国人女性である浄撿が厳密な意味での比丘尼ではないとするならば、元嘉10年(433年)に、インドから来たサンガヴァルマン(僧伽跋摩)を筆頭とした比丘たちの集団と、スリランカから来たデーヴァサーラー(鉄薩羅)を筆頭とした比丘尼たちの集団によって受戒された僧果が、疑いもなく、有効な比丘尼のサンガの伝統を受け継いだ、中国人初の人ということになります。
この『比丘尼伝』の著者である宝唱は、著名な仏教の学僧です。彼は農家の生まれで、18歳の時に、律の先生であった建初寺の僧祐(444~518)の指導のもとで出家しました。彼はその寺で仏教の経典と同様に儒教や道教の哲学的な著作も学び、多才な学者になりました。
伝記作者としては、彼は、本書の他に、『名僧伝』31巻の著者とされています。熟練した目録作者であったので、彼は僧紹による『華林仏殿衆経目録』を増補し、自身で『衆経目録』(一般に『宝唱録』として知られている4巻本)を編纂しました。荘厳寺の僧である僧旻と共に、彼は『経律異相』(経と律から記事を集め分類したもの)50巻を編纂しました。彼は、『解脱道論』12巻を含む数多くのサンスクリットのテキストを中語語に翻訳したカンボジア(扶南)出身の比丘であるサンガパーラ(僧伽婆羅)によって企画された翻訳業にも参加しました。
宝唱はその著作によって中国における仏教の発展に大いに寄与しましたので、唐代の道宣が編纂した『続高僧伝』では彼のために特別に一章が設けられ、そのなかでは彼の生涯の詳細が記述されています。
『比丘尼伝』
―比丘尼達の伝記―
大荘厳寺の釈
巻1
(934b8) 清浄な心、気高い志、非凡な行為、特別な徳というものは、人間が生来そなえている性質が形をとったものであるだけでなく、道徳的誠実さの頂点に到達しようとする人々を鼓舞する高徳の目標になるものです。
従って
駿馬になろうと切に願う馬、それ自体がすぐれた牡馬であるのと同じです。
そのようなわけで、洗練された徳と輝くような性質をそなえた人々の良い評判は、昔からかぐわしい香りを放ち続けています。
それゆえに著述家達は、このような人々が語った言葉を将来の人々が読めるように記録し、歴史家達と評伝家達は、かれらの業績を未来の世代を訓育するために書きとめています。
ですからかれらが語った言葉は、忘れようとしたところで、忘れることはできないようです。
過去に、
比丘尼達の伝統は
菩薩の様々な段階に到達したり、修行の果報を得たりした比丘尼達が途切れることなく代々いました。
彼女達の名前は『ダルマ・ピタカ』(法蔵)の中に、空を横切る太陽のように、列挙されています。
衰退と混乱がありました。
信仰と中傷とが混じりあい、敬虔な信者達とそれらを誹謗する者達が世に現れては消えて行きました。
卑しむべき人々が起こした混乱のせいで、深遠な教えは一時隆盛を迎えた後で世に忘れ去られてしまいました。
衰退の後、
像法(修行を伴わない形だけのブッダの教え)が東に伝わったのち、
また
そのような人々は絶え間なく世に現れました。
彼女達は深い知識と高い徳を持っており、ちょうどリンリンという鈴の音で始まり、碧玉の響き渡る音色で終わる完結した楽曲のように、仏法を体現した人々です。
彼女達は実に、末法の(修行もされなくなりブッダの教えも伝えられなくなった)時代における幹であり、凋落の時に4種の人々(男女の出家者達と男女の在家者達)という葉が頼りとするところのものでした。
時が移り変わり、清らかな訓律は幾らか遠いものとなってきています。
しかしこれら比丘尼達の高徳の気風は、千年にもわたり、人々の模範となることでしょう。
ところが彼女達の生涯の志や業績は、集成され書物の形で紙に書き記されてきませんでしたので、私はこのことを長年残念に思っていました。
そこで私は彼女たちの伝記を著すために、碑文に刻まれた彼女たちの頌徳文を蒐集し、手記や記録を広く探して本書を著し始めました。
私はものをよく知っている学者達に尋ねたり、情報を求めて古老の所を訪れたりしました。
東晋の升平年間(357~361)から梁の天監年間(502~519)までの間に生きた65人の生涯に関する詳細な記事を私は書いています。
この書の中で、私は余計な装飾をこらすことを目的とはせず、基本的な事実を書きのこしておくことに努めましたので、解脱を望む人々が、これら徳ある人々と同じ程の徳を得ようと努める助けとなるでしょう。
(934c)しかし私の文章は拙く知識も限られていますから、本書には遺漏もあることでしょう。
知識ある学者達がそれを補って下さることを私は願います。
彼女の父である誕は武威地方の太守をつとめていました。
幼い頃から
彼女は若くして未亡人になりました。
家が貧しかったので、彼女は貴族の子供達に琴の演奏と読み書きをしばしば教えていました。
彼女は法を聞き、心を躍らせてそれに信心を抱いたのですが、彼女には教え導く人がいませんでした。
彼は仏典にとてもよく通じており、晋の建興年間(313~316)に、王都の西門の所に寺院を建てました。
心身がまだ健全なうちに、法がもたらす利益を得ようと努めねばならないと考え、彼女は数冊の経典を
これらの経典を読んで彼女は仏教の趣旨を理解するに至りました。
ある日、「仏典に『比丘と比丘尼がいる』と言われておりますので、私が比丘尼になるべく、戒を授けていただきたく存じます。」
「西の地方では、男性と女性の僧団がありますが、この国では、僧団に関する説明が十分に伝わっていないのです。」
すると
「『比丘』と『比丘尼』と言われているからには、どうしてその二つの説明に違いがありましょうか。」
「外国人たちは、比丘尼は五百の戒律を守らねばならないと言っています。
それが違いでしょう。
ですが、私の師匠にそのことを尋ねてみましょう。」
師匠は言いました。「比丘尼の戒律は、細かい相違点を除けば、概して比丘の戒律と全く同じです。
比丘尼の戒律は、正当な手続きを踏まずに伝承されていますが、沙弥尼(シュラーマネーリカー)は、十戒を男性サンガから受けることができます。
しかし指導する女性の師匠(和上尼、ウパードゥヤーイー)がいなければ、出家生活で頼ることのできる者は誰もいないでしょう。」
24人の女性が彼女の例にならいました。
彼女達は
入信したてのこれら比丘尼達には教えを説いてくれる女性の師匠がいなかったので、
彼は心広く和やかな性格をした聡明な人物であり、瞑想にも、仏典の読誦にも秀でていました。
彼は晋の永嘉年間(307~312)に中国に来て、施しを受けながら生活していました。
彼が述べることはすべて、道を広めることを目的としていたものなのですが、当時の人々は信心がとても薄かったので、彼に教えを求めたりはしませんでした。
晋の建武元年 (317)に彼は
後に
彼女は温和で、所作に品があり、真っ直ぐな女性でした。
彼女が説法して教化する様子は、ちょうど草が風になびくかのようでした。
晋の咸康年間(335~342)に沙門の
升平元年(357)2月8日、洛陽で外国人沙門
しかし中国人沙門の
そこで一双の小舟が泗水に浮かべられ、
こうして
その儀式の日に、その場に居合わせた人々は皆、いまだ嗅いだことのない芳しい香りがしているのに気づきました。
彼等はそれを褒めたたえ驚嘆し、
彼女は戒律に定められている諸々の規定を遵守し、学習を志して休むことはありませんでした。
彼女はいつも、自分のことを後にし、(935a)他の者を先にしました。
升平年間の終わりに、またあの芳しい香りが立ちこめ、赤い霧が満ちるのが見られました。
そして五色の花々を手にした一人の女性が空から降りてきました。
それを見て「これからも御達者で。
今お別れする時が来ています。」と言って、彼女達の手を取って別れを告げてから、
彼女が通った道は空へと架かる虹のように見えました。
その時
彼女の父忡は、後趙(319~352年)に仕え対外軍の司令官を務めていました。
若い時から
彼女が発す言葉は上品で洗練されていました。
彼女は静かで無欲な性格の持ち主であり、俗世間のことに喜びを抱くことなく物静かな落ち着きを求めました。
今のようにして、お前はどうしようというのか」と言いました。
「私は自分の心を業の道に向け、俗世以外のことをいつも考えています。
非難されようが賞賛されようが私の心は変わりません。
清廉で正直であることに自ら満足しています。
どうして(父に従い、結婚してからは夫に従い、夫亡き後は息子に従うという)三従の教えに従って婚礼をしなければならないのでしょうか。」
父親は言いました。「もしお前が自分一人だけに善いと思うものを欲するなら、どうして同時に自分の両親を助けることができようか。」
「私が道の実践に励むのは、まさに両親はもちろんのこと、あらゆる人々を救済したいと願うからです。」
「家に戻って、三日間、身を慎んで断食をしてから来なさい」。
彼は、自分の娘と似た特徴をもった沙門が仏法を大衆に説いているのを見ました。
彼はこのことを
すると「それはあなたの娘さんの前世における姿なのです。
彼女が出家して他者を利益したことは前世でもこのようでした。
もしあなたが娘さんの願いを受け入れてやるならば、娘さんは名声と賞賛をあなたの家族の六親等の親族全員にもたらし、あなたを富貴にするでしょう。
そして、娘さんは生死の大苦海の向こう岸に渡ることでしょう。」
家に戻ってから、
すると彼女は剃髪し、
その後、彼女は
彼女の思考は深遠であり、彼女の精神的な感化は広くまた遠くに及びました。
その当時の仏教徒達は皆、彼女を敬いました。
200人を超える人々が、彼女に感化されて出家し、そうしてさらに五つの寺が建立されました。
信者達は苦難に気力を挫かれることはなく、精神的目標の達成をなしとげました。
性格は慎み深い人でした。
彼女は僧衣を着てからは、清廉かつ深遠な心で戒律をしっかりと守り、気高い心の中に邪念を抱くことはありませんでした。
太守の
彼は、自分が治めている地域の寺で生活する仏教徒の数を減らそうと考え、決められた日に彼等に試験を課すことにしました。
試験の基準はとても高くて厳しく定められたので、並大抵の人ではとうてい合格できないほどでした。
若い比丘達や比丘尼達はひどくおびえて、逃げ出しました。
試験の日に、都城の外にある弓道場に集まった人々は皆、高徳の老人ばかりでした。
比丘尼達の中で
そして彼女が試験の水準のはるか上にあると分かりました。
彼女は容姿端麗で、弁舌は流麗でした。
彼女は気を失って地面に倒れました。
そして
それ以来、
彼女は百人以上の弟子を持ち、その弟子達は、ちょうど水と乳を混ぜたように、いつも彼女と調和を保ちました。
彼は刺繍を凝らした袈裟を彼女のために織らせました。
できあがるまでに3年の歳月がかかり、その値は100万金でした。
後に、彼女は
晋の太和年間(366~370)、70歳を超えた時にも、
彼女が生活している場所では、たくさんの鳥達がよく木にとまっていたものでした。
そして
彼女の父
彼女の父は彼女のいずれの願いにも応じました。
彼女は北農の
多くの弟子達とともに、
苦行に励むこと久しく益々熱心になりました。
自分が人々に仏教の教えを説いて救済しようとするときはいつも、聴衆が熱心にならないことを恐れました。
時には彼女は涙を流して人々に示そうとしました。
そのようなわけで、彼女の訓育はいつも聴衆にとって非常に利益になりました。
東晋の永和年間(345~356)に、北農の長官が七日間の宗教行事に出席するよう彼女を招待しました。
参集者の中の一人の在家信者が仏教に関するいくつかの質問を失礼な態度で問いかけました。
「あなたは私に対して高慢なだけでなく、州の役人をも大いに軽んじています。
どうしてあなたは人々の集まりで無礼な振る舞いをするのですか。」と。
するとその男は、病気になったと言いわけして立ち去りました。
そのとき、出家も在家も皆、彼女に敬服しました。
しばらく後に、彼女は病をえて床につき日を過ごしていました。
そして臨終が近づくと、彼女は晴れ晴れとしたようすで、自分の弟子達に言いました。「生まれて来るものは、豊かであろうと貧しかろうと、必ず死ぬものです。
今日はお別れです」。
このように言い終わると、
(935c)
彼女の家は代々、偉大な仏教の教えを奉じてきました。
あるとき彼女は賊にとらわれました。
そして襲ってきた敵の一人は、彼女を自分の妻にしようとして。
彼女に拷問を加えましたが、彼女は、辱めは受けまいと決意していました。
そこで彼女は追放され羊飼い女にされました。
十年がたち、家に帰りたいという思いは募りましたが、彼女はどの道を通って家に帰ればよいか見当もつきませんでした。
すると彼女は一人の比丘に出会い、彼から五戒を授けてもらいました。
彼はまた、彼女に『観世音経(アヴァローキテーシュヴァラ・スートラ)』を授けました。
彼女はその経典を日夜休まず学習し読誦しました。
〔故郷から離れた孤独の〕憂い悲しみに耐えられず、逃げ出して東へ向かいました。
始めのうちは、道もわからなかったのですが、日夜進み続けました。
最初はひどい恐怖に襲われましたが、すぐに気持ちは定まりました。
彼女の願いのほうが強かったのです。
十日ほど旅を続けて、青州にたどり着きました。
彼女が村に入ろうとした時、虎は消えていなくなりました。
青州に戻ったものの、彼女はまたも明伯にとらわれました。
この知らせが彼女の実家に届くと、彼女の夫と息子がやって来て彼女を取り戻しました。
彼女の家族はしかし、
三年間ほど〔家族への〕奉仕に励んだのち、
彼女は戒律を完全に守りました。
些細な過失を犯した時には、午前中ずっと懺悔をして、空から花の雨が降るとか、空中に声を聞くとか、
年を重ねるとともに、
晋の永和4年(348)の春、
何充は一目見てすぐに彼女をとても尊敬しました。
その当時、東晋の首都には尼寺がありませんでした。
何充は自分の別邸に寺を建立することにして、
「偉大な晋朝に、今初めて四つの仏教徒の集団がすべて揃いました。
寄進者が建てるものはみな、福徳を生みます。
『」と。
大臣は彼女の提案に従いました。
後に彼女は病を得てまもなく亡くなりました。
若くして純粋な信仰を抱き、正しい仏教の教えを実践したいと願いました。
上にも下にも兄弟姉妹がなく、彼女は母親とだけ生活していました。
彼女は母親に子としての忠義心と尊敬の気持ちをもって仕えていました。
このために彼女の一族から賞賛を受けていました。
彼女の母親は彼女の意志に反することをせず、彼女が世俗の生活を捨てることを許しました。
それから後、彼女は戒行に日夜励み怠ることがありませんでした。
晋の
彼は常々「彼女を見れば見るほど、素晴らしく見える」と言って、彼女のことを褒め称えました。
彼は章皇后何氏に向かって言いました。「都(建康)の比丘尼で」と。
永和10年(354)、
彼女の名声は日に日に広まり、遠方、近在を問わず三百名もの人々が彼女のもとに集まりました(936a)。
泰元21年(396)、彼女は73歳で亡くなりました。
彼女の弟子の
勅令により師であった
またブッダの臥像を造立し、七仏を祀る堂宇を建てました。
彼女は気品ある振る舞いをする人物で、その態度は威厳に満ちており、自らの言動に並々ならぬ注意を配っていました。
深い思慮は広く行き届き、人々を救うことが自分の務めと考えていました。
粗末な衣をまとい、菜食して、その生活に幸せを感じていました。
かつて
彼等は刀で
そこで山賊達は
彼女はうららかに微笑んで、彼等に言いました。「みなさん、あなたがたはもっと沢山のものを御所望なのでしょうが、あいにく、ほんの少しばかりのものしか得ることはできませんよ」。
そうして彼女は衣の下の新しい内衣の紐もほどいて、それを山賊達に与えました。
しかし山賊達はその申し出を辞退して、
彼女はその衣を捨てて行きました。
晋朝の建元2年(344)に
そして彼は彼女に
彼女はまだ若く髪を結ぶ年頃に、道に志を抱き、出家を願いました。
しかし
結婚相手からの結納の品々は彼女の目につかないように隠されていました。
結婚式の日が近づいた頃、
すると彼女は食を断ち、一滴の水さえも飲みませんでした。
彼女の親族は彼女に食事をとるように懇願しましたが、彼女は意志を変えようとはしませんでした。
七日目に、
その花婿は信心の篤い人でした。
自分の新婦が死に瀕しているのを見るや、彼は「人にはそれぞれ自分の志があります。
誰もその志を奪うことはできません。」と。
母親は彼の言葉に従いました。
こうして
時に21歳でした。
父方母方の親族が皆、彼女に賛辞を捧げました。
彼等は競い合って高価な花々や美味な食事を布施しました。
州の長官は楽師達を送り、郡の行政官は自らその行事に出席しました。
出家者も在家者も皆、「これは前例のない出来事だ」と賛嘆の声を上げました。
彼女の名声と地位は
彼女は中央権力ととても密な関係を持ち、公の事についても良い意見を述べました。
このために
建元2年(344)、皇后
事にあたって
隆安元年(397)に68歳で世を去りました。
彼女は大変誠実な人で、人と諍いを交えるようなことはありませんでした。
沙弥尼であった時、いつも尼寺に居住している人々の世話をして、彼女の口は常に経典を唱えていました。
そして20歳になり『法華経(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)』『維摩経(ヴィマラ・キールティ・ニルデーシャ・スートラ)』などの経典を誦掌することができました(936b)。
具足戒を受けたのち、
彼女は
彼女は『小品般若経』によく通じていました。
州の仏教を学ぶ者達は皆、彼女を自分達の師とみなしました。
中国で、比丘尼として経典を講義したのは、
晋朝の泰和(太和)年間に
以前は、たくさんの人々が彼女を敬い従っていましたが、
しかし
後に、
様々な治療も
「私はその人物を知っています。
しかしこれは全て過去の自分の業の結果なのです。
ですからあなた方は問うてはなりません。
かりにそれが私に利益があるとしても、私は言いません。
それは無益なことです」と。
そうして彼女は、自分に毒を盛った者を明かすことなく息を引き取ったのでした。
彼女は厳格に戒律に定められたとおりに実践していました。
占いが得意で、事前に吉凶を知り禍福に備えることができました。
人々は彼女が聖人だと伝えました。
晋朝の
あるとき彼は
果たしてその花々はしおれませんでした。
また、
この大家は都では
後に、女官達が道教寺院に入る時には決まって、本堂が沙門の姿をとった天人で満ちているのを見るようになりました。
皇帝は
占い師は「南西にいる女性の師がこの怪異を除くことができます」と言いました。
皇帝は使者を送って
「すべきことはただ一つ、七日間身を清めて八斎戒を守ることです。
そうすれば自然に消えるでしょう」と。
皇帝は彼女のことばに従い、精神を集中して斎戒を守りました。
すると七日たたないうちに、烏達は集まって巣を運び去って行きました。
それから皇帝は
その寺は林の中にあったので「新林寺」と名づけられました。
それから彼は師に対するのにふさわしい礼節をもって彼女に仕え、正法を奉じるようになりました。
後に晋朝が仏道を称揚し広めたのは、
〔晋朝の〕
太元年間(376~396)に彼女は突如姿を消し、誰も彼女がどこへ行ったのか知りませんでした。
皇帝は彼女の衣と鉢を墓に納めるよう命じ、墳墓が寺の傍にあるのはそのような事情によるわけでした。
彼女は子供のころから、純粋な信仰を抱き、地元の人々から賞賛されていました(936c)。
彼女の家族は騒乱に遭い、彼女は侵略者達によって囚われて連れ去られました。
彼女は眉毛を引き抜いて、悪い病気に罹っていると訴えて解放されました。
彼女は森の中の一本の木に登り、一心に瞑想しました。
彼女を追ってきた者達は前だけを見て、終に上を見上げなかったので、彼女を探しだすことができず、退散して行きました。
彼女は、初めは空腹を感じませんでした。
夕刻、
恐れと不安にかられ、
すると突然、一頭の白い鹿がどこからともなく現れるのを見ました。
鹿は降りて河を渡りましたが、砂塵がその後に立ち上るだけで波は立ちませんでした。
このようにして彼女は自分の家にたどり着くことができました。
彼女は真摯な心で学習し、道を実践しました。
諸々の経典を広く読み、深い意味を理解し、仏教の教えの本質をつかみました。
晋の
後に人々は疫病に苦しめられ、大勢の人々が貧困にあえぎました。
そしてどれだけ遠くても、またどれだけ障害があろうとも、人々から喜捨を集めることに努力を惜しみませんでした。
たくさんの人々が援助を受け、彼女を頼りにしましたが、その一方で彼女自身は飢餓や苦しみを耐え忍んでいました。
彼女の体はやせ衰えました。
75歳を迎えたある朝、「高い峰が美しく天に届き、宝石で飾られて太陽のようにきらきらと輝いていました。
法鼓が高らかに鳴り響き、香の煙が芳しくたなびいていました。
そして前に進むように言われた時、驚いて眠りから覚めたのです」。
その時彼女の身体に不意にいつもと違う様子がありました。
痛みや苦しみを感じている風はなく、昏睡したかのようでした。
仲間の
彼女等との会話が終わらないうちに、
子供のころから仏道を志し、首都に住んでいました。
仏教の学識のみならず世間一般の学識にもよく通じ、文章が上手でした。
晋朝の
彼女はしばしば、皇帝や補佐官、その他宮中の学者達と文学について議論を交わしました。
そのすばらしい才能のおかげで、彼女は高い名声を得ました。
太元10年(385)に、摂政は
宮廷内外の才能ある文筆家達は皆、自分の腕を磨こうとして彼女のもとにやってきました。
こうして彼女は大変な数の供物や贈り物を受け、都で膨大な資産をもつようになりました。
貴族も庶民も敬意をもって彼女に師事し、寺門には毎日百以上の車馬が停まっていました。
時に
そこで
それから程なくして、「前々から
「私はただの宗教者に過ぎませんから、どうしてそのような世事について議論することができましょう。
ただ宮廷の内外の人々が口をそろえて『
彼は深謀遠慮の人物で、荊や楚といった州はそういった資質が必要でしょう。」
皇帝は同意しました。
このように
彼女は同じ郡の
彼女は聡明、才気煥発、博識ですぐれた記憶力を持っていました。
彼女は『法華経(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)』を誦唱し、『維摩経(ヴィマラ・キールティ・ニルデーシャ・スートラ)』と『小品般若経』を講義しました。
彼女は精妙な理法を心でひとり悟る能力をもっていました。
彼女は戒律を厳格に守って修行し、彼女の精神は清らかで深いものでした。
帝都で経と律が順次に翻訳され、その講義の集会が続けられていることを聞きました。
そこで
彼女は
粗末な袈裟をまとい、自分で錫杖と鉢を持ちました。
彼女は質素で慎ましく、驕慢になることがなかったので、出家も在家も彼女を高く評価しました。
78歳の時、
しかし彼女は信心を保ちますます経典の読誦に励んで中断することはありませんでした。
弟子達は彼女に頼みました。「どうか話をして、私達を導いてください」と。
『比丘尼伝』巻一終わる
巻二
宋朝
(937b18)
彼女は常に苦行を実践し、決して綿や絹の衣をまとうことはありませんでした。
彼女は戒律を守ることに特に熱心で、彼女の生活は全く清らかでした。
宋朝(
永初3年(422)(
それによると永初3年となっています)、
尼寺の活動は盛んになり、老いも若きも皆、心から彼女を讃えました。
「この国の比丘尼達は、具足戒をすでに受けてはいますが、それは先立つ伝統なしに受けたものです。
もし
しかしその後に、何か違うようになったことはありますか。」
「違いはありません。」
「戒律の条文によれば、戒師がそのような状況〔律の条文に正確に適合しない状況〕で具足戒を授けるならば、
その戒師は過失を犯したとみなされるようですが、どうして貴僧は『違いはない』とおっしゃるのですか。」
「もし自分が所属する比丘尼サンガの中で二年間の見習い(式叉摩那、正学女)の守るべき
戒律(六法戒)を修めていなかった場合に限って、その戒師は過失を犯したと見なされます。」
「以前に我が国には比丘尼がいなかったので、以上のことが許されるのでしょうが、」
(937c)「戒律の規定によると、具足戒を授けるのに必要な沙門の人数は十名とされています。
しかし辺境の地では、五人で具足戒を授けることができます。
これは、律の条文通りの条件が不可能な場合には、例外が認められるという理由によります。」
「何里離れていれば辺境の地と見なされるのですか。」
「千里以上離れており、山々と海で隔絶された場所が辺境の地にあたります。」
彼女は70歳を過ぎて
趙の国で反乱が起きた時に、彼女の一族は
才能があり、すぐれた理解力のある人物だったので、
晩年は都で放浪者として暮らし、皇帝のいる都は栄え平和であったとはいえ、いつも生まれ故郷を懐かしんでいました。
奥深い仏教の根本思想を深く研究することによってのみ、彼女は悲しみを消散させ、老齢を忘れることができました。
その後、彼女は
昼間には教理を研究し、夕方には討論をし、その教義について深く考えました。
年を経るにつれて、
老いてはいきましたが、彼女は壮年期の者達を凌いでいました。
彼女はいつも極楽浄土に生まれることを願い、同輩の
「西方浄土に生まれたいと志して、私は道を実践しているのです。」
その月の末日の夜の初更に、
にわかに大勢の従者と共に芳香を放つ花々や雲の上に乗って、病床についている
光明が燦然と輝き、寺の者達は皆それを見ました。
尼寺の者達は集まってきて、
話し終わるや、亡くなりました。
享年72歳でした。
以上は、
機縁に従い、寒暑を厭うことはありませんでした。
彼女は『法華経(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)』『首楞厳経(シューランガマ・〔サマーディ〕・スートラ)』等の経典を十日間誦唱し、仏法の利益を得ました。
彼女は諸々の経典と論書を読んで学ぶことを決して止めませんでした。
そのとき、「斎戒を行うことに験があれば、肉体を捨てた後に必ず
そしてさらに、苦行を行う七日の間に
第五日目の深夜、尼寺の東側にある森の中で一筋の霊的な光が燦然と輝きました。
尼寺の住職
以前
その光は周囲を照らし、十日して消えて行きました。
後に
高さ一尺だったということです。
10歳余りで、すでに古典や歴史書を広く読んでいました。
受戒の後、彼女は三蔵に通暁し、苦行を熱心に実践しました。
晋朝の太元年間に、皇后は
富裕で高貴な女性達は互いに先を競い合って
南の
そして
彼女はまた、普賢菩薩の行像を造らせ、供養の道具類の精巧で美しいさまは比類のないものでした。
また
出家者も在家者も互いにその出来事について語り合い、皆が礼拝しに来ました。
神々しい輝きを見て、歓喜しない者はありませんでした。
彼女は穏やかで落ち着きのある性格で、孝心をもって知られていました。
子供のころから、彼女は在家の五戒を守り、違反することがありませんでした。
喪中の深い悲しみのせいで、彼女は病気を患いました。
その病気は、痛みも痒みも伴わないのに、彼女の体は黄色に痩せて骨ばかりの体にしてしまいした。
数年経っても、どんな治療も彼女を治すことはできませんでした。
そこで彼女は、もし病気が治ったら出家するという誓いを立てました。
この誓いを立ててから、
苦行に励むことにかけて
彼女は『法華経(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)』を三千回読誦しました。
〔その経典を諳んじている時〕彼女は常に光の瑞兆を見ました。
彼女は
10歳を超えた時、
あらゆる良薬を試したにもかかわらず、容体は日に日に悪化して行きました。
その時、
「彼女の病気は彼女自身の過去の業のせいではないかと思います。
薬では治せません。
仏教経典が言う所では、危急の苦しみから逃れるには、三宝に帰依し、懺悔して救いを願えば、救われるということです。
もしあなたと娘さんが誤った慣習を捨て、一心専心して汚れと不浄を洗い去るならば、全快するでしょう。」
心を清めて、誠心誠意、親子は菩薩を崇めました。
病を抱えながらも
七日の後、彼女は夜の初更に、不意に一尺ほどの高さの黄金像が自分を頭の上から足の先まで三回撫でるのを見ました。
その時、彼女は重い病が一瞬にして癒されたことをさとりました。
37年間、彼女は菜食生活を続け、絶えず
その後彼女がどこに行ったのかは知られていません。
彼女は、仏道を実践し高潔で、魚や肉を食べませんでした。
80歳近くになっても、修行にいっそう熱心になりました。
尼寺の管理をしながら、説法に従事していました。
元々、
その寺の殿堂や房舎その他の建物は全て壮大かつ美麗でした。
彼女は
彼女は弟子達に遺言しておきました。「私が死んだ後、私の亡骸を埋葬する必要はありません。
誰か人を雇って身肉を切り裂いて、生き物に餌として与えなさい」と。
しかし彼女が亡くなった時、弟子達は遺体を切り分けるに忍びなく、そのことを
その長官は、鳥や動物が自ら食べることができるように、亡骸を山に運んで行くようにさせました。
十日間余り経っても、亡骸は元のまま残り、顔色も変わりませんでした。
役人は村人たちに、いくらかの米を亡骸のまわりに撒かせました。
鳥達は亡骸の遠くの米だけを食べつくして、亡骸の近くの米はそのままでした。
墳墓の上には一宇の仏塔が建立されました。
(938c)
若い時、彼女は道徳的な行いを忠実に守っていました。
17歳の時に出家し、
後に
彼女は仏法を学び実践することに専心したので、全ての人々が彼女を賞賛しました。
自分の師の
病は重篤でしたが、心は未だ熱意にあふれて深い信心を抱き、初心を変えようとはしませんでした。
彼女は寝台から降りることもできなかったので、枕の上でひざまずいて頭をつけて懺悔を行いましたが、呼吸はいつもどおりでした。
そして『法華経(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)』を毎日三巻、読誦しました。
二回の食事の時間を過ぎた後に彼女は意識を取り戻しました。
彼女は夢の出来事を語りました。「西方に向かって行くと、道の途中に仏塔がありました。
塔の中に一人の僧が目を閉じて瞑想していました。
彼は私を見て驚き、どこから来たのか尋ねました。
返事をしてから、彼にその場所から自分の尼寺までどれだけの距離かと尋ねました。
彼は五千万里だと答えました。
夢の中で見た道は草に覆われ、そこを通って行く人々がいましたが、知らない人ばかりでした。
そのとき風が雲を高く吹き上げたので、その場所はさっぱりと清らかで、西側が特に明るく輝いていました。
先に進もうとしましたが、例の僧が引きとめました。
そこで戻ろうとしたところ、急に目が覚めました」。
その一週間後、
11歳で出家し、
彼女は
初め、
彼女は他にも様々な経典を学びました。
〔肉を噛んだため〕彼女の口は不浄なので、具足戒を受けませんでした。
在家の白い衣をまとって修行に励み自分の業を懺悔していました。
そして空の色が金色に変わりました。
頭を上げて仰ぎ見ると、南に一人の人が二重の衣をまとい、その衣の色がすべて黄色なのを見ました。
その人は「私はすでにあなたに具足戒を授けました」。
そしてその人は消えて探しても見つかりませんでした。
そしてこれに似た不思議な出来事を数多く経験しました。
彼は妹にわざと言いました。「多くの年月、お前は道を実践してきたが、全く利益を得なかったではないか。
だから髪を伸ばしなさい。
婿を見つけてあげよう」。
そして
そして彼女は具足戒を受けました。
具足戒を受ける前日に、
受戒後、
(939a)
彼女が謙虚で正直であり、また勤勉なことは、皆が知るところでした。
彼の妻の
彼女は
百日が過ぎて、
後に
そうして、瞑想と仏教の知識に通じ、深遠な真実を探求しました。
弟子たちを訓育するときは、ことさら厳しい態度を取らずによく教えることができました。
彼女が活動的なとき、それは利を得るためではなく、静かにしているとき、それは名声を得るためではありませんでした。
彼女の注意深い思いやりはもっぱら衆生を救うためだけにありました。
60歳になり、
彼女の身内の者達はこれを聞いて驚き、どうしてなのか彼女に尋ねました。
彼女は答えました。「昨日、二人の沙門が自分にそう言っているのを私は見たのです」。
少しして、彼女はまた言いました。「今、昨日見たのとは違う二人の比丘が、
偏袒右肩(僧衣を左肩に掛けて右肩を露わにすることで、相手に尊敬を示す正式な衣の着方)して、手に花々を持って、私の病床に立っています。
遠くに一人の仏が蓮の花の上に座り、光で私の体を照らしています」。
それから後、
その夜遅く、息遣いがか細くなると、彼女は経を止めて、ブッダの名を唱えるよう言い、彼女も名を唱えました。
夜が明ける頃、
彼女の家は代々仏教を信仰しており、彼女の姉妹は皆敬虔な仏教徒でした。
彼女は出家の誓いを立て、求婚者からの贈り物を受け取りませんでした。
しかし彼女の容姿の美しさはその地方ではよく知られていたので、富裕な家々は結婚の申し込みをしようと彼女の家に押しかけました。
婚礼の三日前、
寺主は彼女を別室に置いて、必要なものを与えました。
そしてそれを二日間で覚えました。
雨のように涙を流しながら日夜休みなく礼拝しました。
三日が過ぎたとき礼拝中に仏像を見ました。
仏像は彼女に語りかけました。「あなたの婿は命が尽きようとしています。
あなたはただ修行に励み、心配してはなりません」。
明くる日、婿は牛に突かれて死んでしまいました。
これによって
禁戒を堅く守り、心を空に集中すると、あたかも言葉を発することができないかのようでした。
しかし名前と実体について論ずる段になると、その雄弁は疲れを知りませんでした。
彼女は『大般涅槃経(マハー・パリニルヴァーナ・スートラ)』を五日に一遍読み通しました。
元嘉10年(433)、
尼寺の諸事を監督するのに、彼女は皆に等しい愛情をもって、平等に接しました。
老いも若きも彼女に満足し、時が経つにつれいっそう彼女を敬いました。
彼女の弟子の
二人とも『法華経』を諳んじていました。
(939b)
幼くして出家し、師匠に従って
若い時も、
美味な食物を食べることをやめ、具足戒を受けようとする時には、穀類を完全に断ち、松の実を食べました。
具足戒を受けてから15年もの間、彼女の意識はいつも鋭敏かつ溌剌としていましたが、彼女の体力は衰えてやつれ、疲労を滲ませてきました。
それでもなお、
沙門の「食べ物を食べることは仏教で重要なことではありません」。
これを聞いて、
そうして、彼女は努力を倍加し、疲れを感じることなく勤勉に学習するようになりました。
彼女に師事して観相法を学ぼうとする人々の数は、いつも百人を超えていました。
「私は自分のこの身体を久しく嫌悪していました」。
そのため、病気を患いながら、心の中でも、また口に出しても懺悔を続けました。
彼女の心は穏やかに澄みわたり、精神は晴れ晴れと喜びに満ちていました。
彼女は
彼女はその夜、命終しました。
彼女は若くして出家しました。
彼女は温和で、喜怒の感情を出すことはあまりありませんでした。
上等な衣をまとわず、美食を食べませんでした。
一人の妹がおりましたが未亡人で頼れる人がありませんでした。
そこで幼い子を連れて
妹は、
それを言っては、姉はとめどなく涙を流し、悲しみはやまないようでした。
その姉妹は4、5年一緒に暮らしましたが、妹は姉が食事をしているのを一度も見たことがありませんでした。
妹が食事を作り、一緒に食べるよう姉を呼ぶと、
このようにして、姉妹は幾年もの間一緒に生活しました。
妹は自分のことを恥じて言いました。「未亡人になるなんて、私はとても不幸だわ。
しかも他に親族もいない。
子どもと一緒に姉に頼って、とてもむさくるしく取り散らかしたに違いないから、姉さんはそのことに嫌気がさして、私と一緒に食事をしようとしないのだわ」。
彼女は眼に涙を浮かべてこのように言い、出て行こうとしました。
「あなたは私の心をわかっていません。
私は外で他の人々から供養を受けられるのですから、どうして家で食べる必要があるでしょうか。
あなたは安心して暮らしなさい。
私はじきに長い旅に出るつもりです。
あなたはこの家を守って、どうかどこにも行かないでください」。
この言葉を聞いて、妹は出て行く考えを捨てました。
それから
そしてその油を彼女は、素焼きの甕のなかに入れて中庭に置きました。
「この油は功徳を積むためのものです。
どうか使わないでください。」
火が頭に達した時、彼女は妹に鐘を打つ祭主を呼ぶよう頼みました。「私は今この命を捨てます(939c)。
比丘尼達に速やかに来て別れを告げるように知らせてください」。
比丘尼達は驚いて集まりました。
「あなたがたはそれぞれ努め励みなさい。
輪廻は恐ろしいものです。
それからの解放を得るよう努めなさい。
どうか輪廻の生存で流転を繰り返さないように。
私は前世で27回もこの身を捨てて供養しました。
そしてこの生の一身で初めて私はその果を得ました。」
(
従って、筆者はこれらすべての年代をここに記載しておきます)
彼女は前世から植え付けられた信心があり、生来正直で信仰心に篤い人でした。
乳飲み児であった時でさえも、彼女は昼を過ぎると乳を飲むのを止めました。
このために
成人すると
彼女が出家できたのは、27歳になってからでした。
精神統一(定)に入るときはいつも黄昏時から夜明けまで、その精神を純粋に保ち、身体は枯木のように不動でした。
しかし意識の低い人々は、まだ疑いの目で見ていました。
その比丘尼達は
しばらくして彼女達は「この国には以前、外国の比丘尼がいたことはありますか。」
彼女は「ありません」と答えました。
すると比丘尼達は尋ねました。「では以前に〔中国の〕比丘尼達はどうやって〔比丘サンガと比丘尼サンガという〕二つのサンガから具足戒を受けることができたのですか。」
「〔中国の最初の比丘尼達は〕比丘サンガから具足戒を受けました。
人々の心に〔具足戒を受けることの〕重い意味を理解させるための方便でした。
ですから、マハープラジャーパティー(大愛道)が八敬法を受け入れ、五百人の釈迦族の女性たちがマハープラジャーパティーを和上(師匠)としたのと同じです。
これは重要な先例です。」
そこで
彼女はさらに質問しました。「具足戒を二度受けてよいのですか。」
「戒律、禅定、智慧という仏教の修行項目は、
小さいことから〔次第に発展して〕身につくものですから、具足戒を二度受ければ、いっそうよいでしょう。」
彼女達より前にやってきていた比丘尼達はすでに中国語を使いこなせるようになっていました。
彼女たちは
そして次々と300人余りの比丘尼が二度目の具足戒を受けました。
あるとき、彼女は一日中静かに瞑想して座っていました。
寺の執事長(維那)は彼女に触れてみて、彼女が死んだと知らせました。
驚いて寺官(寺の寺務をつかさどる職)は別の寺官に次々と知らせ、調べてみようとして皆やってきました。
しかし彼女はかすかに呼吸をしていました。
寺官達が彼女を運ぼうとした時、
そういうわけで、愚かな者達は驚嘆し彼女に敬服しました。
その後どのように人生を終えたのかはわかっていません。
彼女は戒律を完璧に厳しく守り、読誦した経典は四万五千語に及びました。
彼女が住んだ寺は山の麓の林にあり、あらゆる喧騒から離れていました。
彼女の心は自由に瞑想にひたることができ、世間的な労苦からは全く自由でした。
あるとき、一人の男が牛を見失って探し回りました。
彼は夜にその山に来て寺の方を見ると、林に火が盛んに燃え上がっているのが見えましたが、その場所に行ってみると何もありませんでした。
一頭の虎が、いつも
彼女が座禅をすると、その虎は彼女の脇にうずくまりました。
寺の中の比丘尼が過失を犯して適時に懺悔をしないと、その虎は大いに怒りました。
しかし懺悔をすれば、虎は喜びました。
後に
その女性は、旧知であるかのように気さくに挨拶をしました。
彼女は姓を
彼女はもともと仏法を好んでいました。
仏道が南方で盛んに行われていると聞いて、旅行くための道が開けた時、彼女は南方の地にやって来たのでした。
それから彼女は出家し、
二人とも米を食べずに、胡麻などの雑穀を食べました。
〔その二人の女性の〕名声は
異民族はその二人を聖人だと考え、使節を送って彼女達を迎えました。
しかし二人は辺境の地に留まりたくなかったので、評判を壊すためにわざと無作法な振舞いをしました。
異民族の首長が魚や肉を含む上等な御馳走を彼女達のために用意すると、彼女達はそれをがつがつと食べました。
このせいで首長は彼女達のことを軽蔑し、それ以上引き留めませんでした。
彼女の振舞いは清らかできちんとしていました。
才能と識見は傑出していました。
志し篤く学問が好きで、しばしば食うや食わずの生活に陥っても、学ぶことを止めませんでした。
彼女は
そこで彼女は出家して戒律を守り、信心はますます深まりました。
彼女はしばしば自分の衣類や食物を
寺の他の比丘尼達は「彼女は未だに心を仏法や経律に向けようとしません。
瞑想法を学びたいようですが、彼女には師範がいません。
頑迷で頭が悪くて、最低の人です。
どうしてもっと良い田に功徳の種を撒かずに、劣った福徳しか得ようとしないのですか。」
「田が良いか悪いかは聖人だけが知っています。
私は凡人ですから、どうして取捨選択できましょうか。
施し物を必要としている人にたまたま出会って、自分の利を考えず与えても、何の問題がありましょうか。」
後に
三日目の夜に、彼女は比丘尼達と一緒に座っていました。
他の比丘尼達が立ち上がった時、彼女は立ち上がりませんでした(940b)。
比丘尼達は近づいて彼女を見て、彼女が木石のように堅くなっており、押されても動かないのに気づきました。
彼女達は彼女が死んだのだと言いました。
ところが三日後に、
比丘尼達は彼女に感服し、
このような出来事は後にも先にも一度ならずありました。
歳を取るにつれて、
90歳余りで、
彼女の立ち居振舞いは高尚で威厳があり戒行には清廉潔白でした。
大乗の教えを深く理解し、精妙な真理によく通じていました。
瞑想と経典の読誦をとても好み、忙しい時でも、怠ることはありませんでした。
宋の
皇妃の一人、「とても尊敬に値することです」と。
そしてさらに拡張して、北側に僧房を造立しました。
彼女はまた比丘尼達に必要なものを何でも与え、寺は繁栄しました。
二百人からなる比丘尼衆は法事を休みなく行いました。
齢を重ねるにつれ、ますます多くの人々が彼女を尊敬しました。
老齢を理由に彼女は引退したいと申し出ましたが、比丘尼衆は同意しませんでした。
その当時、
彼女達は皆、その非の打ち所のない徳のために、都のある地方で名声がありました。
彼女は
彼女は
彼女は
彼女は
彼女は忠義に篤く清廉で、慎ましく質素に暮らしました。
粗い衣をまとい、菜食して臭い強い物や辛い物を食べませんでした。
高潔の誉は早くから都で知られていました。
後に
そして彼女は禅観を正しい方法で修行して、完全な理解を得ました。
修行者の集りの中にいる時はいつも、
あるとき食堂で皆が立ち去ったとき、彼女は立ち上がりませんでした。
寺務長(維那)が驚いて彼女に触れてみると、木石のように堅く動きませんでした。
寺務長が急いで知らせると皆が集まってじっと見つめました。
すると一瞬の後に
比丘尼達は皆感服し、今まで以上に尊敬するようになりました(940c)。
その二日前、
そこでは衣服や装飾品その他の品々が光り輝き、この世のものではありませんでした。
〔その宮城には〕上等な衣服で盛装した男女が満ちていましたが、主がいませんでした。
「明日ここに到着することになっています。」
その日、
ある者にそのことを知らせに比丘尼達のもとへ行かせました。
老若の比丘尼達が皆集まると、彼女は言いました。「私のまわりに不思議な人々がいます。
影のように雲のように、急に現れたり消えたりします」。
このように言うと、彼女は坐ったまま命終しました。
後にまた、
彼女は菜食し誦経に励み、
彼女は
若い頃から、外見で人々を差別せず、長じては、出家か在家かで人柄を判断しませんでした。
賢者とも愚者とも仏道のためにわけ隔てなく交際しました。
彼女の徳行はあらゆる事におよび、人々を救済しようとする努力は深く広いものでした。
額が燃え、耳と目が炎で焼け落ちても、彼女は中断することなく経典を誦していました。
出家者も在家者も嘆息し、邪な者も誠実な者も同様に驚嘆しました。
この出来事を聞いた国中の者達は、悟りを求める心を起こしました。
宋朝の仏教学者の
幼い頃から彼女は聡明で、努力家ぶりは群を抜いていました。
朝にはいつも香を焚いて、暫くの間、瞑想し礼拝しました。
昼には菜食一飯だけをとり、肉や魚を食べませんでした。
在家のときでも、彼女は出家者のように生活していました。
彼女は深い瞑想や神秘的な観想をすべて実践しました(941a)。
彼女は物静かで争わず、温和で節制のある人でした。
友人や知人とも決して軽薄なおしゃべりはしませんでした。
瞑想を好むことは、老いても衰えることはありませんでした。
彼女の亡骸は
同じ
彼女も聡明で傑出した人物で、多くの経律を読誦しました。
菜食・苦行生活を営み、
16歳の時、彼女の母親が亡くなりました。
三年間喪に服して、穀物を食べずに葛の根や芋を食べて過ごしました。
彼女は絹や真綿の衣を着ることもなく、柔らかい椅子に座ることもありませんでした。
19歳で出家し、
彼女は行儀正しく熱心に学び、瞑想と戒律に精通しました。
南朝宋の
さらに
また
彼女には威風があり、神のように公正な判断を下しました。
彼女は物事の道理をよくわきまえ、不正があれば必ず正しました。
堅固で実直な性格をそなえており、優柔不断なところはありませんでした。
以前、
彼女は中国における最初の比丘尼でした。
その後、
「もしその国に、〔比丘サンガと比丘尼サンガという〕2つのサンガが存在していなければ、
比丘サンガからのみ具足戒を受ければよろしい。」
後に
これは彼女達が以前に受けた具足戒が無効であると考えられたからではなく、戒律の良さを高揚しようとしたからです。
その出来事の後、新奇なことを好む者達が盛んに張り合って、戒律の伝習を損なってしまいました。
講義が終わった時、十人余りの比丘尼達が再び具足戒を受けることを望みました。
そこで、木鐘を鳴らして比丘尼達にその命令が告げられました。「具足戒を二度受けることは許されない。
もし〔具足戒を受けた〕比丘尼が成年に達していないことが分かった時は、その比丘尼の師が、まずサンガの前で彼女に懺悔させ、その後に宗務局に届けなければならない。
宗務局が許可したら、保証人が監督してもう一度具足戒を受けなおすことができる。
これに違反するものは追放される」と。
これによって、〔比丘尼の受戒についての〕おかしな慣行はしばらくの間やみました。
役職についている間、
彼女は諸事を扱うのに才能があり正義を貫きました。
彼女は、比丘尼達を安心させ、下の者達に対して親切でした(941b)。
孤高を守り欲が少なく、世の人々はますます彼女を尊敬しました。
20歳の時、騒乱に遭い、父親に従って
仏教徒の家の出身であったので、彼女は若くして出家し、
深く思考をめぐらし熱心に学び、深遠な教義を究めました。
彼女の名声と地位は
宋朝の
宮中に招待された時、
彼女が公正にかつ適格に諸事を処理しましたが、それは殊に優れたものでした。
彼女は分野に応じて人を推挙したり昇進させたりしましたが、それは水が低い方へ流れるように彼女の徳として帰ってくるのでした。
実に
700人の人々が、彼女を戒行の模範として教えを請いました。
若い時に出家し、常に焼身して三宝を供養すると誓っていました。
彼は最初それを許可しました。
ところが
すると「あの比丘尼は名声と利得を得ようとして、大それたことをするふりをしたのです。
しかしそのために密かに衙門(長官の役所)にいる人々に賄賂を渡したのでしょう。
さもなければ、どうして夜中に都の人がこんなことを知ることができたでしょうか。」
「奥様、そうお怒りにならないで下さい。
捨身は私だけのことです。
どうして他の人々がそのことを知りましょうか。」
そこで
炎が顔に達した時も、彼女は誦経をやめませんでした。
彼女は比丘尼達に言いました。「私の遺骨を集めたら、ちょうど二升になるでしょう」。
火が消えると、結果は彼女が言ったとおりでした。
彼は容姿端麗で、肩に生えている毛は、長さ6、7寸ほどでとても細くて柔らかでした。
人々が彼にそのことについて尋ねると、彼は通訳を介して「自分は肩を衣で覆ったことがないので、毛が生えたのです」と言いました。
彼は「私は
私はあなたが捨身をすると聞きました。
ですから遺灰を収める銀の瓶を贈り物としてさしあげます」。
(941c)
ところが彼女がさらに何かを聞こうとした時にはもう、彼は急いで去ってしまいました。
人を送ってその
巻二終わり
巻三
斉朝
二人はまだ仏教の経典や教えについて何も知りませんでした。
二人は自分達が浄土にある天の宮殿に行き、ブッダを見て、ブッダに教導を受けたと言いました。
それから後、二人は外国の言葉を書いたり話したり、経典を誦唱することができるようになりました。
田畑で働いていた百姓達は、二人が風に乗って漂々と天に上っていくのを見ました。
両親は娘達のことを心配し、恵みを求めて神々に祭祀を行いました。
一か月して姉妹は出家して法衣をまとい、〔剃った自分達の〕髪の毛を手に戻ってきました。
姉妹は
そしてその比丘尼が「あなたがたは前世の因縁により、私の弟子になるのです」と言い、それから比丘尼が手を上げて二人の頭に触れると、髪は自然に抜け落ちました。
比丘尼は姉を
二人が戻る時、比丘尼は言いました。「あなたがたは精舎を立てなさい。
あなたがたに経典を与えましょう。」
その精舎で日夜二人は経典を講義し誦唱しました。
夕方には五色の光明が差して照らし、あたかも山の峰に灯明か蝋燭があるかのようでした。
その時から、〔姉妹の〕振舞いは優雅で威厳があり、言葉と行いは非の打ち所がなく正しいものでした。
都で行われる経典の誦唱では姉妹に勝る者はいませんでした。
郡の長官であった
彼らが二人の講話を聞いて非常に敬うことは、並はずれていました。
こうして学識ある人々は皆、仏教の正しい教えを信じるようになりました。
彼女は若い時に
具足戒を受ける前に、
具足戒を受けた後は、特に戒律を広く学びました。
彼女はものごとを詳細に分析し、深遠な事柄を探り真実を見いだすことができました。
比丘尼達は老いも若きも皆、彼女に師となってくれるように頼みました。
彼女達は書物を抱え、群れをなして、
五つの身分と七つの貴族の家柄(五侯七貴)の女性たちとそれ以外の人々も皆、彼女を敬わない人はいませんでした。
彼女がまだ母の胎内にある時、家族は節会を行うために、
比丘と比丘尼二人は妊婦のお腹を指差し、胎児を自分達の弟子と呼ぶように頼まれました。
母親はお腹の子に代わって二人を師匠と呼び、その子が男の子であれ女の子であれ、必ず出家させると約束しました。
出産の日に、母親は夢で神が語るのを聞きました。「あなたは八斎戒を守りなさい」。
そこで母親は八斎戒を行う準備を命じました。
ところが僧侶達が集まり仏像を拝む前に、
その時、空中に声が聞こえました。「その子は
母親はその言葉に従いました。
5歳か6歳になった頃、
数百の経巻を読み、その理解は日に日に深くなっていきました。
菜食克己し、その清らかな生き方は次第に有名になりました。
そこで彼女は
彼女達は
彼女達の振る舞いと性格は並外れて気高いものでした。
それから
しかし出家者も在家者も渡航は禁じられていました。
そこで彼女は
彼女の道徳的な影響力が広まるにつれて、無知蒙昧な人々も心を動かされました。
邸宅や庭を彼女に寄進した家は13にも及び、彼女のために
南朝宋の
都に戻ると
出家者も在家者も彼女の行いを模範としました。
〔南〕斉の
彼女の亡骸は
彼女の弟子達は石碑を立て、
子どもの頃から、
12歳の時、父親をなくすと、彼女は慟哭のあまり吐血し、意識を取り戻すまでしばらくの間気絶してしまいました。
三年の喪が明けてから、彼女は不滅ということを説いて、母に別れを告げて出家しました。
命を維持するために野菜と玄米だけを食べました。
仏道を敬い懺悔を行い、決して怠慢になることはありませんでした。
過去に犯した罪の懺悔を述べるときは、心を込めて涙を流し、他の人がしようとしてもできないほどでした。
彼女の優れた名声を耳にするや、
そして
彼女はさまざまな経典を昼も夜も学び、いつも師匠の講義・説法に、全く飽きることなく出席しました。
多くの書物を読んで記憶し、耳に入ったものは何でも覚えることができました。
このようにして経典と戒律を全て完璧に理解しました。
清透な心で瞑想する時は、静かにまっすぐに座り傾くことはありませんでした。
斉の建元4年(482)に
母親は家の東の部分を捨施して寺にして、
様々な堂宇が建てられ、竹や樹木が列に並べて植えられました。
内も外も静穏で、その有様は仙人の住まいのようでした。
かつて一人の猟師が寺の南の近くにやってきました。
空飛ぶ鳥達や走り回る動物達は助けを求めて
ところが鷹と猟犬は一尺程の所まで追って来ました(942c)。
彼女は嘴で突かれ噛みつかれましたが、逃げてきた鳥や動物達の命は救われました。
数十人の人々が同じ寺で彼女と共に暮らしましたが、30年以上の間に一度として
彼女は永明7年に72歳で亡くなりました。
その時代に
彼女は
彼女も孝行で知られ、彼女の行いは気高く優れており、知性は深く重厚でした。
気性は温和で頭がよく、偉大な教導に従って自分の心を陶冶しました。
彼女は、あたかも夜に輝く真珠を守るように、禁戒を堅く守りました。
忍耐の心を培い、他の人を傷つけることなく、侮辱されたり苦しめられたりしても、つねに和顔を保ちました。
彼女は帳を下ろして隠遁生活を送りましたが、一日中憂鬱になることはありませんでした。
物事の諸相を深く理解しており、人々は彼女を尊敬しました。
禅堂が初めて建てられた時、斉の
男女の出家者と在家者(四衆)は、感服して彼女を大いに敬いました。
斉の竟陵の
斉朝の皇室の侍従であった
6歳で彼女は自分の祖母と一緒に都に行き、
祖母がその訳を尋ねると、彼女はその決意を話しました。
すると祖母は
宋朝の動乱期に、あらゆる階級の人々が皆 、仕事を失いました。
混乱した時勢が何年も続きました。
20歳になろうという時、
彼女の孤高な修行は並ぶものなく、俗世の塵埃を絶つことは他の者の追随を許さないものでした。
彼女は『大般涅槃経(マハー・パリニルヴァーナ・スートラ)』の講義を聴講し、一度聞いただけでよく理解しました。
その後、律蔵を学び、再度学ぶ必要がないほどの成果を上げました。
彼女は数十巻の註釈書を著しました。
言葉は簡潔ながら内容は深遠で、意図することは深く、論理は精妙でした。
かつて
しかし
彼女は厳しい顔色で比丘尼衆にこのことを知らせ、彼女達は報告書を書いて、役人に送りました。
このように
その頃、
法師は盗まれた品々に代わるものを補うすべがありませんでした。
彼は悲しみ嘆いたので説法もできなくなり、三日間自室に閉じこもりました。
彼女の徳の感化はいつもこのようなものでした。
斉の
内務大臣(司徒)であった
比丘尼達を訓導するにおいて、実に皆から信頼されていました。
令旨(皇太子が出す文書)により
法師の座の脇にはいつも香炉が置かれていました。
「二晩の間、火を入れていません」。
ところが彼女が入れた香は芳しい煙を漂わせ始めました。
皆は感嘆して、「これは
すると突如、空中に指を鳴らす音が聞こえました。
彼女は合掌しその音に注意深く耳を傾けました。
そのようなわけで彼女の名声は遠くには聞こえませんでした。
毎日、毎月、寺に必要な物は十分にあり、さらに多くの僧房や堂宇が建てられ、尼寺全体が繁栄しました。
突然、翡翠の天蓋をつけた金の車が自分を迎えに来るのを見ました。
「私は今、世を去ります」。
弟子達は皆泣きました。
すると彼女は衣をひろげて胸を出しました。
胸には草書体で〔書かれた〕「仏」という文字がありました。
その字体はくっきりした白い色で明るく輝いていました。
66歳でした。
彼女の亡骸は
彼女の父は
彼女は自らの利得を考えず、他人からの毀誉褒貶に対して無頓着でした。
また彼女は瞑想の修行に専念し、〔十分に瞑想を実践するには〕一日の長さが足りないと思いました。
寒い時も暑い時も、彼女は衣替えをせず、四季に食べ物飲み物を変えることもありませんでした。
一日に一回、菜食の昼食だけを取りました。
禅師達は彼女の悟りが早いことに賛嘆しました。
南朝斉の
出家者も在家者も彼女に教えを請いに訪れました。
このことは彼女の心をひどく乱したので、寺の左に別に禅室を造らねばならなくなりました。
その禅室で坐禅して黙想しました。
禅室から出てくると、人々を真摯に指導して疲れを知りませんでした。
斉朝の
年老いても、彼女の志は衰えませんでした。
一日中執着のない清らかさで過ごし、夜通し彼女は横になることもありませんでした。
その当時、
彼女は元の姓を
仏道の実践に熱心に励み、また瞑想を行うことでも高名でした。
彼女は威厳があり、静寂を好み、瞑想と智慧の修行に励みました。
初め彼女は
後に彼女は、審(釈僧審?)と隠(釈法隠?) を師として、禅観を全て学びました。
大乗の奥深い経典をすべてよく講義することができ、精神統一(三昧)の秘密の方法にかけても師匠となる人でした。
彼女は菜食だけをして、衣は〔擦り切れて〕身体を覆うこともできていませんでした。
彼女は未だ学んでいない人々を訓導し、すでに学んでいる人々を励まし学びを完成させました。
彼女の講義を聴く者達は修行し、その功徳は非常に大きいものでした。
そのとき、
このように分割した結果、
〔
そこで
その当時、
三人ともその学識で有名でした。
仏道への志は大変誠実で、仏法に心からの喜びを見いだしていました。
具足戒を受けると、最初は
具足戒を受けてから10年で、
斉の
後に彼女は住職(寺主)になり、20年以上務めました。
比丘尼達は老いも若きも皆、父母に仕えるように、彼女を尊敬し仕えました。
その結果、弟子は400人余りになりました。
当時、同じ寺に
二人ともその学識と修行で名を知られました。
(943c)
彼女は
いつも他の人を先にして自分を後回しにし、衆生を皆救済したいという志を持っていました。
彼女は禅観瞑想を行い、三昧瞑想を会得しました。
彼女の徳の名声は広まり、人々を教化する力は遠くまで届きました。
出家者も在家者も
時に、
彼は元々、
〔
〔そのため
そこで
適切な時間に行乞に歩き、施されたものだけで暮らしました。
また常に焚き木を集め、功徳を積むのだと言っていました。
輪廻の身を捨てて三宝を供養したのです。
近くの村〔の人々〕は火を見て、彼女を助け出そうと駆けつけましたが、彼らが到着した時、
出家者も在家者も〔悲しんで〕慟哭し、その声は山や谷にこだましました。
人々は彼女の遺骨を集めて、墳墓を作りました。
彼女は生まれつき世俗に馴染まず、早くに出家したいと願いました。
両親は彼女の心を思いやり、その志を妨げませんでした。
身口意の三業は汚れが無く、瞑想の奥深い秘密に非常によく通達していました。
彼女は自らの身体を気遣わず、食物の味を忘れていたので、やせ細っていました。
仏道に精進しよく受持すること(総持)にかけて、世の模範となりました。
教えを伝授し訓育するにあたって、
当時の人々は心から彼女を敬いました。
彼女の徳と感化の力は広く知られました。
出家者も在家者も彼女の葬儀に出席し、むせび泣きました。
人々は彼女の遺骨を集め、墳墓を作って埋葬しました。
人となりは高潔で近寄り難い雰囲気をそなえており(944a)、女性というよりは男性のように見えました。
彼女の話や議論はとても自然で率直でした。
7歳にして
18歳の時、
彼女は戒律を完璧に守り、出家者にも在家者にも賛美されました。
当時、
その比丘尼は
二人は一夏〔の安居〕を共に過ごし、般舟三昧を一緒に習得しました。
二人は心身ともに勤苦し、昼も夜も休むことはありませんでした。
斉の太尉(軍事に関わる宰相)であり大司馬(国防長官)であった
時に、
このために、
施物を受け取る度に、すぐに他の人々に分け与え、蓄えようという気持ちは全くあったためしがなく、高い志は遠く都にまで聞こえました。
そして彼女は自分自身の生活には無頓着でした。
彼女のために、王家の所有地の東に精舎を建立し、
彼女はしばしば王宮に行き、仏教を講じました。
しかし食事を取ろうとせず、顔貌は憔悴し、自分の元の寺に戻りたいと切実に願い出ました。
自分の寺に戻るとすぐに、彼女はすっかりよくなりました。
10日後、
それから少し後に
そうして
また、王室は呪いの読誦を得意とする者達を供養し続けました。
王宮の内外の人々は
すると
私は歳を取って体も弱ってきましたので、この機会に一度宮中をお訪ねして、ご婦人方にお別れを申し上げたいと願っております」と言いました。
そして宮中に入り食事をしました。
食事が終わると、彼女は紙と筆を所望し、次のような詩を作りました。
世の人は知らないかもしれません
私の名が
()
詩を書き終わってから、
辞去する時、「今、寺に帰るのが、永遠の別れとなりましょう。
私は年老いていますから、ふたたび宮中に来ることはできないでしょう」と言いました(944b)。
その時、
彼女は普段と変わること無く、数日して死去しました。
それは
また
彼女の父の先は、若くして国子生(国の最高学府の学生)になりました。
彼の家は代々偉大な仏法を信仰していました。
五経を読み、それらの意味を完全に理解しました。
清廉にして礼儀正しい人間であったので、家族の内の人も外の人も彼女を尊敬しました。
21歳で
近隣の人が彼女を嫁にもらいたいと申し出ましたが、彼女はそれを断り、再婚しないと誓っていました。
そのために
その後、彼女は
呉の3地方の学識ある人々も庶民も、宮中の内外の人々も皆、彼女を敬いました。
その後、
彼女の年齢は60歳を越えていました。
また当時、
彼女は性格が剛直で、世の中の傾向に従って己を変えることはありませんでした。
いつも瞑想の実践と戒律を守ることを自分の務めと考え、衣食を気に掛ることはありませんでした。
当時、その出来事を見た人聞いた人は皆、悟りの道に発心しました。
人々は彼女の遺灰を集め、墳墓を作りました。
彼女の高祖父の
彼女は生まれた時にすでに口に二本の歯があり、長じるといつも暗い部屋で燈明や蝋燭を使わずに、はっきりとものを見ることができました。
8歳になった時、彼女は姉妹同時に仏道に入り、
具足戒を受けた後、姉妹は共に学問のために都に行き、
姉妹は真剣な志をもって日夜熱心に学び(944c)、経典と戒律を究め、洗練されて優雅な言葉遣いを身につけました。
宋の
宋の大将軍は
そこで〔比丘尼としての具足戒を受ける条件が整ったので〕
二人は処罰され、寺は破壊され、比丘尼達は四散してしまいました。
学生達が群れ集まり、彼女から教えを受けようとしました。
このような訳でその国の東南には仏教が栄えました。
斉の
遠くの人も近くの人も
彼女は二百人以上の弟子を抱え、施された品々を蓄えることはありませんでした。
年毎の大説教会を開き、比丘・比丘尼に分け隔てなく多くの贈り物を皆に与えました。
また
彼女は元の姓を
彼女は受けた施物を
『比丘尼伝』巻三終わり
巻四
梁朝
(945a7)
彼女の祖父は
父の
7歳の時、彼女は自分から断食を行いました。
彼女の家が僧侶を招いて『涅槃経』を読誦してもらうと、魚や肉を食べないということを聞いて、菜食するようになりました。
しかし彼女はあえて両親にそれを知らせませんでした。
鮭や鰻が食卓に上ると、彼女はこっそりそれを捨てました。
彼女は外国人沙門の
彼女は日夜休まずブッダを礼拝し、経典を読誦しました。
12歳になると
手習いを覚えると、彼女は自分で写経をしました。
自分の財物はすべて功徳のために使い、世俗の楽しみを望みませんでした。
錦や刺繍のある高価な布地をまとわず、化粧もしませんでした。
19歳になった時、出家を許され、彼女は
また彼女は身口意の三つによる修行を熱心に実践し、昼夜怠ることがありませんでした。
彼女は寺の皆で行う諸々の仕事では、率先して働きました。
そして彼女は自分のもとにきた仕事は何でも引き受けてせっせと励み、常に善い神々が彼女を加護し、いつも彼女の左右にいるようでした。
さてその時、
あるとき、
二人はおびえましたが、
自分の部屋に戻って蝋燭を取り、〔仏殿の〕階段を登ろうとしたとき、また空中に声が聞こえました。「比丘尼達よ、道を開けなさい。
別の日にまた数人の比丘尼と一緒に禅室で座禅していると、比丘尼達の一人がいびきをかきながら眠りにおち、その眠りの中で一人の男が頭で堂を支えているのを見ました。
そしてその男は、「
後に、
彼女が戻ろうとすると、一人の人物が手で止めるしぐさをして、「
あるとき彼女は
しかし彼女は一千銭しか持っておらず、事は成らないのではないかと心配しました。
その夜彼女は夢を見ました。
その中で烏やカササギ、ムクドリなどの鳥達がそれぞれ見合った大きさの乗り物に乗り、「私たちは
講義を実現するための算段が始まると、70人の檀家が競い合って素晴らしい布施をしました。
後に
講義の初日に瓶の水がひとりでに芳香を放ちました。
その日、一緒に講義に出席する仲間がいなかったので、
「偉大な光はまだ遠くに及んでいないのに、あなた方の精神はいささかたるんでいます。
自らが己を正さなければ、どうやって他の人々を統率して導くことができましょうか」。
そうして
比丘尼達はこれを見て、皆共々考えなおし非を認めて恥じ、懺悔して謝りました。
彼の戒律の規範は高潔でした。
そこで
しかし
そこで
このようにして彼女は自分の〔精神的な〕目的を何とか達成しようとしました。
志を同じくする十人余りの比丘尼達と共に住み、皆、瞑想を行って功徳を積みました。
そして経を収める箱を別に作り、堂内に置きました。
〔寺を訪れる〕人々でこの特別な徴を見ないものはありませんでした。
またあるとき、
それが終わってから、彼女は心を集中して瞑想しました。
すると〔瞑想の中で〕、彼女は二人の外国人僧侶が手を挙げて語り合っているのを見ました。
一人は
その二人の袈裟の色は熟した桑の実の色をしていました。
そこで
また別の時に、
二日目に、また一人の
集まっていた人々はそれを怪しみ、誰かと尋ねました。
すると彼は、「私は一年前に
人々は門衛に、彼に注視するようにさせました。
多くの人が、その沙門が
しかし十歩程歩いたところでこつぜんと姿を消してしまいました。
またあるとき、
彼女が経験した様々な奇瑞は皆このようなものでした。
斉の
彼女は年老いて力が弱り、もはや歩くことができなくなったので、
これは
彼は
「とても良い所に生まれたのだから、私を迎えに来るのを忘れないでくれ」と言いました。
」と。
7月13日になって彼女は小康を得て夢を見ました。
その中で彼女は幡や天蓋、諸々の楽器が仏殿の西にあるのを見ました。
22日に彼女は、親しい比丘・比丘尼達に別れを言いに来てくれるように頼みました。
27日に自分の弟子達に「私は
89歳でした。
彼女の父は
彼女は
彼女は若い頃から秀才で、物事の道理を見通すことができました。
彼女は節操が堅く、厳格な心で生活し、瞑想は精密でした。
彼女は書物を広く読み、彼女が書いたものは、表現の点でも内容の点でも優れたものでした。
彼女は『法華経』を日夜七回読誦しました。
宋朝の
彼女の瞑想法は大いに盛んとなり、学ぼうとする人々が集まりました。
民政を担当する大臣(司徒)であった
彼女の亡骸は
若い時から仏道を実践するのを楽しんでいましたが、彼女の両親はそれを許しませんでした。
すると彼女の母親はその願いに従いました。
そして
ところが
婚礼の日取りも決められていたので、その予定を変えることはできませんでした。
郡の長官(刺史)の甄法崇はこれを聞いて、使者を送って
今、私はあなたの助けと支えを請いたく存じます。」と答えました。
すると、伯母は即座に長官の命令を受け入れました。
そこで
時に13歳でした。
そして彼女は法育から瞑想法を学びました。
最初の教えを受けてからすぐ、
彼女は東に二筋の光明を見ました。
一本は太陽の様に白く、もう一本は月のように青い色をしていました。
この精神統一(定)の状態にあって、彼女は、「白い光は菩薩道を表し、青い光は声聞(自分自身が悟りを得ることを目標とする仏弟子達)の教えを意味しているに違いない。
それが本当だとすれば、青い光は消え、白い光が輝くはずだ」と考えました。
この考えの通り、青い光は消滅し、白い光線が煌々と輝いたのでした。
その時、40人以上が
後に、
長官は
すると「この人は知性をそなえています。
彼女の願いに反したことをしないのが賢明でしょう。
もし」こうしてその問題は解決されたのでした。
後に瞑想の中で、
同時代の様々な名高い師達が全力で討論しましたが、彼女を論破することはできませんでした。
そのようなわけで彼女の名声は遠くにも近くにも広まり、彼女はあらゆる人々の信頼を勝ち得ました。
時に
1200人の男女が、出家者と在家者を問わず、
年月がたち、
彼女はその徳ある諸々の行いをもって有名であったので、弟子の数は日増しに増えていました。
市場に架かる橋の北西に、
殿堂や回廊が速やかに完成しました。
彼女はさらに3つの寺も建立しました。
そしてそれらは驚くべき早さで落成したので、人々は感嘆し、彼女は不思議な力を持っていると言いました。
それより以前に、
後に郡の長官
梁朝の
(946b)もともと彼は自分はその集会には参加しないと言ったのですが、その行事の最中に自ら出向いてみると、300人程の沙門達と、補佐官達が総勢400人近くいました。
彼等が宗教儀式を行おうとしている時、
すると幾人かの人々が彼女の所に送られて来ました。
彼等は、二人の弟子と二人の下女だけが、他の使用人の手を借りずに、食事を準備しているのを見たのでした。
かつてある人が
「あなたとあなたの弟子達が持っている資産は中流家庭がもっているそれにも及ばないようですが、あなたが諸々の物事をそのような驚くべきやり方でなすことができるのは、どうしたわけですか。」
「私には貯えがあったためしはありません。
私はお金が必要となる時にはいつでも、必要となる三枚か、五枚の金貨を用立てることができるのみです。
いくらかお金が必要となればその都度、自分の知らない形で自分の手もとに届いて来るのです。」
また
彼女は元の姓を
彼女は三蔵を遍く読み、諸学派の哲学にも精通していました。
とりわけ彼女は著述に長けており、文学的な格調高さを保ちながらも作文上の決まりごとの枠組みにきちんと合わせた表現を用いて、
彼女に対する尊敬の念から、同時代の人々は彼女を姓で呼んでいました。
一日一回だけの食事を菜食で採り、戒律を厳格に守りました。
彼女は自分の6本の指を焼き落として供養し、すべてのことを手のひらで行いました。
三日毎に一回『大般涅槃経(マハー・パリニルヴァーナ・スートラ)』を諳んじました。
その時、
彼の精進は群を抜いていました。
しばらく後に、「先生、あなたは未だ完璧の域には達していません。
私をあなたの善知識にさせてください。
先生、あなたは
そしてその地にある」
彼は
その沙門は喜んで、一升の葡萄酒を飲むよう彼に差し出しました。
」
「私ははるばる遠方からやって来て、自分の目的を遂げていない。
多分、私は彼に逆らうべきではないのだ。」そう考えて、彼は一口に葡萄酒を飲み干し、酔っぱらってしまいました。
彼は嘔吐し、意識を失ってしまいました。
そうしているうちに先程の沙門は去って行きました。
酔いが醒めた時、
彼は自分がやってしまったことを深く後悔し、自らの命を断とうとしました。
このように考えている間に、彼は阿羅漢へ至る第三の段階に到達しました。
例の沙門は戻って来て彼に尋ねました。「あなたは第三の段階に達しましたか。」
「その通りです。」そうして彼は
まだ彼が
これは彼女の予知能力を示す一例です。
彼女の父は
彼女は言葉少なでしたが、言ったことは何であれ実行し、行動も浮ついたり衝動的になったりしませんでした。
彼女は十日間ずっと屋内にいることが幾度となくあり、彼女の振る舞いを見た人々は皆、格別な敬意をもって彼女を敬わずにはいられませんでした。
時に18歳でした。
具足戒を受けた後、彼女は 『法華経(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)』について講義を行い、
後に彼女は
人々が彼女に会って質問すると、彼女は「罪は、重いものであれ、軽いものであれ、ただちに告白しなさい。
真摯に日夜悔い改めなさい」と答えました。
身分の貴賤を問わず、人々は敬意をもって
彼女の亡骸は
経や律によく通じており、彼女が発する言葉はいつも洗練されていて真っ直ぐなものでした。
彼女は講義を行ったりはしませんでしたが、あらゆる中心的な教えを深く学習していました。
宋朝の
子供の時、
この後、
そして宮中の中の人も外の人も、親しく彼女に諸々の寄進の品々を送りました。
精進料理が用意され、講義が設けられ、途絶えることはありませんでした。
同時代のありとあらゆる有名な学者達は
後に彼女は十年以上にわたって、尼寺を統率しました。
また、
二人とも広く名の聞こえた人物でした。
幼くして大人の知力をもっていました。
5歳か6歳の時、彼女はしばしば砂を集めて仏塔を建てたり、木を彫って仏像を作ったりしていました。
彼女は香を焚いて作った仏像を一日中拝んでいましたが、それでいてなお、自分が十分にそれらを拝んでいるとは思っていませんでした。
人々が何か話しているのを聞く時はいつでも、
20歳の時、
彼女は両親を恋い慕い、食事をとりもしなければ、眠りにも就こうとせず、ただ断食行を続けるために水を飲んでいました。
彼女は忠告を聞きいれることを拒み、一週間断食しました。
そして断食の後、彼女は菜食を厳格に守りました。
彼女は忍耐強く、戒律をひたすら厳しく守りました(947a)。
彼女の師や友人は感服し彼女を尊敬しました。
そして彼女は遠くの人からも身近な人からも賞賛されました。
幼少の頃から彼女の知性は見事で際立っており、先を見通す力は確かでまた広い範囲に及んでいました。
彼女はざっくばらんで正直な性格で、大きな志を持った人間でした。
彼女の礼儀作法や立ち居振る舞いはいつも大変すばらしいものでした。
若い時、
1~2日後、
17歳で
彼女は『涅槃経(ニルヴァーナ・スートラ』や『華厳経(アヴァタンサカ・スートラ)』、さらに『成実論(サティヤ・シッディ・スートラ)』や『倶舎論(アビダルマ・コーシャ)』を学びました。
彼女は何であれ物事の初めの部分を見ればいつでも、その目的や意味を〔たちどころに〕理解することができました。
彼女が学習した事柄は深遠で容易に理解できるものではありませんでした。
彼女は際限なく、広い範囲にわたる討論を交わすことができました。
斉朝の竟陵
法師の
彼女が説教を行うよう請われた時はいつでも、その聴衆は数百人を数えました。
公邸の中でも尼寺の中でも、宗教行事が絶えず催され、同時代の先輩の先生達は誰一人として討論で彼女を論破することはできませんでした。
後に
しかし
頭がよくて並外れた学識のある一人の比丘尼がおり、彼女は神業的なやり方で、広い範囲にわたる討論を交えることができました。
晩年に、
皇帝は彼女について耳にすると、感服して彼女を高く賞賛しました。
彼女の亡骸は鍾山に埋葬されました。
若い時に出家し、
始めに〔沙弥尼の〕十の戒律を受けてから、
具足戒を受けてからは、彼女は、氷や霜と同じくらいに純粋なあり方で、禁戒を守っていました。
彼女は5部の書物を広く学び、それらの持つ深遠な意味を驚くべき方法で探りました。
そしてそれらの意味を明らかにするための注釈書を著すことができました。
宋朝の
かくして
彼女は真面目に学習し、菜食生活をし、その集団全体にとっての傑出した模範となりました。
彼女の父
彼女は8歳で菜食をし、19歳を迎えた
そして彼女は宗教上の裁量をなすにあたってはいかなる過失も犯すことがありませんでした。
彼女は経や律を学習することに集中し、それらを熟読しました。
後に彼女は『十誦律(サルヴァースティヴァーダ・ヴィナヤ)』を学習することに格別な努力を割き、その書物の意味を完璧に理解しました。
彼女は
それから彼女は
そしてその尼寺で瞑想の師として崇められたのでした。
宋朝の
ところが当時、尼寺を勝手に建立することは許可されていませんでした。
その尼寺は50以上の講堂や殿堂や僧房等の建物からなるもので、その中で
その尼寺は「
宋朝と斉朝の間、国が騒乱状態にあった時にも、
斉朝の皇太子
二人は、その尼寺全体を修復してありとあらゆるものを輝いて美しくなるようにし、四季を通じて施しの品々を寄進し続けました。
自分が受け取ったものは何であれ、仏教教団を構成する4種類の人々を助けるために、あるいはまた放生のために、あるいはまた喜捨を行うために分け与えました。
彼女は5体の黄金の仏像を作りました。
それらは全て壮麗で美しいものでした。
また彼女は一千巻以上の経や律を筆写させました。
筆写された経と律の標札や包装、紐、軸は高価な装飾品でとても美しく飾られていました。
彼女の亡骸は
子供の頃から彼女の素晴らしい才は見事なものであり、他に抜きん出ていました。
若いうちに出家して、
そして、優れた素晴らしい精神力をもって、一点の過失も犯さないように戒行を守りました。
彼女の真摯な信仰と彼女がなす諸々の慈悲深い行いは人々の心に深く刻まれました。
彼女は話をするのが好きで、特にユーモアのあることを言うのが特に上手でした。
そして『十誦律(サルヴァースティヴァーダ・ヴィナヤ)』についての説明も別々の機会に行い、多くの人々を導き利益しました(947c)。
彼女は6歳で道を好むようになりましたが、彼女の両親は〔彼女が出家するのを〕許可しませんでした。
11歳になってから、
彼女は気高く明るい心をもった純粋でつつましい女性であり、所作と性格は落ち着きがあり気品に満ちていました。
17歳の時、
彼女は精力的で活力に満ちており、人がとてもできないようなことをなしました。
彼女に対する情愛から、両親は〔ついに〕彼女の願いを叶えてやることにしました。
彼女は18歳で出家し、
彼女は
十年以上にわたって、彼女の学識は知識の森のように盛んに発展して行き、都にいる比丘尼達は皆、彼女から教えを受けました。
それから法座が頻繁に開かれ、四方の遠く離れた地から人々が集まりました。
眠ることを止めてでも、日夜正しく憶念することに集中しました。
王侯、貴族や地位の低い者達も皆、
十方からもたらされた施物が四季を通じて大量に彼女に寄進されました。
自分が受け取った財は何であれ、彼女はそれを写経や仏像を鋳ることのために、また必要とあればいつでも、喜捨をなすために使いました。
もし受け取った財で何か使われていないものがあれば、それを
そうして
彼女の亡骸は
時にまた、
子供の時から物静かで控えめな性格で、自然の諸々の道理を学ぶことに秀でていました。
志と能力をもった人物で、勤勉・厳格で、他の人々よりも禁欲的に生活していました。
彼女の本懐は他者を助けることであり、自らについては粗衣で満足していました。
彼女に対する愛情の気持ちから、
彼女は17歳で出家し、経や律を、その意味を完璧なまでに学習しながら、広く読みました。
歩いている時にも座っている時にも絶え間なく瞑想を実践していました。
自分が犯した諸々の過失を懺悔する時や、仏教上の誓願を立てる時、彼女の言葉は誠実で人の心を動かすものであったので、それを聞いた人々は深い崇敬の念でいっぱいになったのでした。
斉朝の竟陵の
瞑想を実践する手本となる人になってくれるよう請われると、彼女は同意しました。
それから彼女は森の中に自分の居を定め、そこで余生を送りました(948a)。
太陽が厚い雲に覆い隠され、山々が深い雪に覆われた時にも、
信者達から施物を受け取った時はいつでも、
彼女は自分が受け取った施し物はいかなるものであれ、自分の利益のために使ったりはしませんでした。
彼女の亡骸は
彼女の父
子供の時から
まだ7歳の時に、
18歳の時、彼女は『法華経(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)』を諳んじ、その経典の始まりから終わりまでの綱要を完璧に理解していました。
一人の結婚仲介人が不意に彼女の所にやって来ましたが、彼女は誓願を理由にその申し出を断りました。
その尼寺で
その日、彼女の頭上に下がっていた天蓋はひとりでに消えてなくなりました。
宋朝の末期に、経典と論書に関する講義をしながら中国東部を旅してまわっていた
彼は
彼はまた
彼女が吸収した学問は日に日により良いものとなっていき、理解した内容は月を追うごとに増していきました。
そして彼女は
〔その尼寺で〕彼女は、経と律についての講義を次から次へとなし、
そしてその尼寺はとても見事で美しいものであったので、神々の手で造られたもののように見えました。
その尼寺には書写された経典や鋳造された仏像が完備していました。
梁朝の
『比丘尼伝』巻四終わる