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三國遺事 (No. 2039_ 一然撰 ) in Vol. 49 981 982 983 984 985 986 987 988 989 990 991 992 993 994 995 996 [行番号:有/無] [返り点:有/無] [CITE]
T2039_.49.0972a01: T2039_.49.0972a02: T2039_.49.0972a03: T2039_.49.0972a04: 文虎王法敏 T2039_.49.0972a05: 王初即位。龍朔辛酉。泗泚南海中有死女尸。 T2039_.49.0972a06: 身長七十三尺。足長六尺陰長三尺。或云。身 T2039_.49.0972a07: 長十八尺。在封乾二年丁卯 T2039_.49.0972a08: 總章戊辰。王統兵。與仁問欽純等至平壤。會
T2039_.49.0972a12: 壤道大總管。以伐高麗。又明年辛酉正月。蕭 T2039_.49.0972a13: 嗣業爲扶俆道總管。任雅相爲浿江道總管。 T2039_.49.0972a14: 率三十五萬軍以伐高麗。八月甲戌。蘇定方 T2039_.49.0972a15: 等及高麗戰。于浿江敗亡。乾封元年丙寅六 T2039_.49.0972a16: 月。以龐同善高臨薜仁貴李謹行等爲後 T2039_.49.0972a17: 援。九月。龐同善及高麗戰敗之 十二月己酉。 T2039_.49.0972a18: 以李勣爲遼東道行臺大總管。率六總管兵以 T2039_.49.0972a19: 伐高麗。總章元年戊辰九月癸巳。李勣獲高 T2039_.49.0972a20: 王。十二月丁巳獻俘于帝。上元元年甲戌 T2039_.49.0972a21: 二月。劉仁軌爲雞林道總管。以伐新羅。而郷 T2039_.49.0972a22: 古記云。唐遣陸路將軍孔恭水路將軍有相 T2039_.49.0972a23: 興新羅金庾信等滅之。而此云仁問欽純等 T2039_.49.0972a24: 無庾信。未詳。時唐之游兵諸將兵有留鎭而 T2039_.49.0972a25: 將謀襲我者。王覺之。發兵之明年。高宗使召 T2039_.49.0972a26: 仁問等讓之曰。爾請我兵以滅麗。害之何耶。 T2039_.49.0972a27: 乃下圓扉。錬兵五十萬。以*薜邦爲帥。欲伐新 T2039_.49.0972a28: 羅。時義相師西學入唐來見仁問。仁問以事 T2039_.49.0972a29: 諭之。相乃東還上聞。王甚憚之。會群臣問防 T2039_.49.0972b01: 禦策。角干金天尊奏曰。近有明朗法師入龍 T2039_.49.0972b02: 宮。傳祕法而來。請詔問之。朗奏曰。狼山之南 T2039_.49.0972b03: 有神遊林。創四天王寺於其地。開設道場則 T2039_.49.0972b04: 可矣。時有貞州使走報曰。唐兵無數至我境。 T2039_.49.0972b05: 迴槧海上。王召明朗曰。事已逼至如何。朗曰。 T2039_.49.0972b06: 以彩帛假搆宜矣。乃以彩帛營寺。草搆五方 T2039_.49.0972b07: 神像。以瑜珈明僧十二員。明朗爲上首。作文 T2039_.49.0972b08: 豆婁祕密之法。時唐羅兵未交接。風涛怒起。 T2039_.49.0972b09: 唐舡皆沒於水。後改剏寺。名四天王寺。至今
T2039_.49.0972b12: 前。是時翰林郎朴文俊隨仁問在獄中。高宗召 T2039_.49.0972b13: 文俊曰。汝國有何密法。再發大兵無生還者。 T2039_.49.0972b14: 文俊奏曰。陪臣等來於上國一十餘年。不知 T2039_.49.0972b15: 本國之事。但遥聞一事爾。厚荷上國之恩。一 T2039_.49.0972b16: 統三國。欲報之徳。新剏天王寺於狼山之南。 T2039_.49.0972b17: 祝皇壽萬年。長開法席而已。高宗聞之大悦。 T2039_.49.0972b18: 乃遣禮部侍郎樂鵬龜使於羅審其寺。王先 T2039_.49.0972b19: 聞唐使將至。不宜見茲寺。乃別剏新寺於其 T2039_.49.0972b20: 南待之。使至曰。必先行香於皇帝祝壽之所 T2039_.49.0972b21: 天王寺。乃引見新寺。其使立於門前曰。不是 T2039_.49.0972b22: 四天王寺。乃望徳遥山之寺。終不入。國人以 T2039_.49.0972b23: 金一千兩贈之。其使乃還奏曰。新羅剏天 T2039_.49.0972b24: 王寺。祝皇壽於新寺而已。因唐使之言。因名
T2039_.49.0972b27: 禹奏於唐。帝見表流涕。赦仁問慰送之。仁 T2039_.49.0972b28: 問在獄時。國人爲剏寺名仁容寺。開設觀音 T2039_.49.0972b29: 道場。及仁問來還。死於海上。改爲彌陀道場。 T2039_.49.0972c01: 至今猶存。大王御國二十一年。以永隆二年 T2039_.49.0972c02: 辛巳崩。遺詔葬於東海中大巖上。王平時常 T2039_.49.0972c03: 謂智義法師曰。朕身後願爲護國大龍。崇奉 T2039_.49.0972c04: 佛法。守護邦家。法師曰。龍爲畜報何。王曰。 T2039_.49.0972c05: 我厭世間榮華久矣。若麁報爲畜。則雅合朕 T2039_.49.0972c06: 懷矣 王初即位置南山長倉。長五十歩。廣十 T2039_.49.0972c07: 五歩。貯米穀兵器。是爲右倉。天恩寺西北山 T2039_.49.0972c08: 上是爲左倉。別本云。建福八年辛亥築南山 T2039_.49.0972c09: 城。周二千八百五十歩。則乃眞徳王代始築。 T2039_.49.0972c10: 而至此乃重修爾。又始築富山城。三年乃畢。 T2039_.49.0972c11: 安北河邊築鐵城。又欲築京師城郭。既令眞 T2039_.49.0972c12: 吏。時義相法師聞之。致書報云。王之政教明 T2039_.49.0972c13: 則雖草丘盡地而爲城。民不敢踰。可以潔災 T2039_.49.0972c14: 進福。政教苟不明。則雖有長城。災害未消。王 T2039_.49.0972c15: 於是正罷其役。麟徳三年丙寅三月十日。人 T2039_.49.0972c16: 家婢名吉伊。一乳生三子。總章三年庚午正 T2039_.49.0972c17: 月七日。漢岐部一山級干一作成山何于。婢 T2039_.49.0972c18: 一乳生四子。一女三子。國給穀二百石以賞 T2039_.49.0972c19: 之 又伐高麗。以其國王孫还國。置之眞骨 T2039_.49.0972c20: 位 王一日召庶弟車得公曰。汝爲塚宰。均 T2039_.49.0972c21: 理百官平章四海。公曰。陛下若以小臣爲宰。 T2039_.49.0972c22: 則臣願潜行國内。示民問徭役之勞逸。祖 T2039_.49.0972c23: 賦之輕重。官吏之清濁。然後就職。王聽之。公 T2039_.49.0972c24: 著緇衣。把琵琶爲居士形。出京師。經由阿瑟
T2039_.49.0972c28: 侍宿客居士者終身偕老二妻曰。寧不並居。 T2039_.49.0972c29: 何以於人同宿。其一妻曰。公若許終身並居。 T2039_.49.0973a01: 則承命矣。從之。詰旦居士欲辭行時。曰僕京 T2039_.49.0973a02: 師人也。吾家在皇龍皇聖二寺之間。吾名端
T2039_.49.0973a05: 一人上守京中。諸曹注今之其人也。安吉當 T2039_.49.0973a06: 次上守至京師。問兩寺之間端午居士之家。 T2039_.49.0973a07: 人莫知者。安吉久立道左。有一老翁經過。聞 T2039_.49.0973a08: 其言良久佇思曰。二寺間一家殆大内也。端 T2039_.49.0973a09: 午者乃車得令公也。潜行外郡時。殆汝有縁 T2039_.49.0973a10: 契乎。安吉陳其實。老人曰。汝去宮城之西。敀 T2039_.49.0973a11: 正門。待宮女出入者告之。安吉從之。告武珍 T2039_.49.0973a12: 州安吉進於門矣。公聞而走出。携手入宮。喚 T2039_.49.0973a13: 出公之妃。興安吉共宴。具饌至五十味。聞
T2039_.49.0973a16: 有田三十畝。下種三石。此田稔歳。武珍州亦 T2039_.49.0973a17: 稔。否則亦否云 T2039_.49.0973a18: 万波息笛 T2039_.49.0973a19: 第三十一神文大王。諱政明。金氏。開耀元年 T2039_.49.0973a20: 辛巳七月七日即位。爲聖考文武大王創感
T2039_.49.0973a27: 庾信乃三十三天之一子今降爲大臣。二聖 T2039_.49.0973a28: 同徳。欲出守城之寶。若陛下行幸海過。必得 T2039_.49.0973a29: 無價大寶。王喜以其月七日駕幸利見臺。望 T2039_.49.0973b01: 其山遣使審之。山勢如龜頭。上有一竿竹。晝
T2039_.49.0973b04: 暗七日。至其月十六日風霽波平。王泛海入 T2039_.49.0973b05: 其山。有龍奉黒玉帶來獻。迎接共坐。問曰。此 T2039_.49.0973b06: 山與竹或判或合如何。龍曰。比如一手拍之 T2039_.49.0973b07: 無聲。二手拍則有聲。此竹之爲物。合之然後 T2039_.49.0973b08: 有聲。聖王以聲理天下之瑞也。王取此竹。作 T2039_.49.0973b09: 笛吹之。天下和平。今王考爲海中大龍。庾信 T2039_.49.0973b10: 復爲天神。二聖同心。出此無價大寶。令我獻 T2039_.49.0973b11: 之。王驚喜。以五色錦彩金玉酬賽之。勅使斫 T2039_.49.0973b12: 竹出海時。山與龍忽隱不現。王宿感恩寺。十 T2039_.49.0973b13: 七日。到祗林寺西溪邊。留駕晝饍。太子理恭
T2039_.49.0973b16: 一窠沈水示之。乃摘左邊第二窠沈溪。即成 T2039_.49.0973b17: 龍上天。其地成淵。因號龍淵。駕还。以其竹作 T2039_.49.0973b18: 笛。藏於月城天尊庫。吹此笛則兵退病愈。旱 T2039_.49.0973b19: 雨雨晴。風定波平。號万波息笛。稱爲國寶。至 T2039_.49.0973b20: 孝昭大王代天授四年癸巳。因失禮郎生还 T2039_.49.0973b21: 之異。更封號曰万万波波息笛。詳見彼傳
T2039_.49.0973b25: 見。郎喚其母。問爾子何在。母曰。幢典牟梁益 T2039_.49.0973b26: 宣阿干以我子差富山城倉。直馳去。行急未 T2039_.49.0973b27: 暇告辭於郎。郎曰。汝子若私事適彼。則不須 T2039_.49.0973b28: 尋訪。今以公事進去。須歸享矣。乃以舌餅一
T2039_.49.0973c02: 鳥失奚在。人曰。今在益宣田。隨例赴役。郎 T2039_.49.0973c03: 歸田以所將酒餅饗之。請暇於益宣。將欲偕 T2039_.49.0973c04: 還。益宣固禁不許。時有使吏侃珍管收推火 T2039_.49.0973c05: 郡。能節租三十石輸送城中。美郎之重士風 T2039_.49.0973c06: 味。鄙宣暗塞不通。乃以所領三十石贈益宣 T2039_.49.0973c07: 助請。猶不許。又以珍節舍知騎馬鞍具貽之。 T2039_.49.0973c08: 乃許。朝廷花主聞之。遣使取益宣。將洗浴其 T2039_.49.0973c09: 垢醜。宣逃隱。掠其長子而去。時仲冬極寒之 T2039_.49.0973c10: 日。浴洗於城内池中。仍合凍死。大王聞之。勅 T2039_.49.0973c11: 牟梁里人從官者。並合黜遣。更不接公署。不 T2039_.49.0973c12: 著黒衣。若爲僧者。不合入鍾鼓寺中。勅史 T2039_.49.0973c13: 上偘。珍子孫爲枰定戸孫標異之。時园測法 T2039_.49.0973c14: 師是海東高徳。以牟梁里人故不授僧職。初 T2039_.49.0973c15: 述宗公爲朔州都督使。將歸理所。時三韓兵 T2039_.49.0973c16: 亂。以騎兵三千護送之。行至竹旨嶺。有一居 T2039_.49.0973c17: 士平理其嶺路。公見之歎美。居士亦善公之 T2039_.49.0973c18: 威勢赫甚。相感於心。公赴州理。隔一朔。夢見 T2039_.49.0973c19: 居士入于房中。室家同夢。驚怪左甚。翌日 T2039_.49.0973c20: 使人同其居士安否。人曰。居士死有日矣。 T2039_.49.0973c21: 使來还告其死。與夢同日矣。公曰。殆居士誕 T2039_.49.0973c22: 於吾家爾。更發卒修葬於嶺上北峯。造石彌 T2039_.49.0973c23: 勒一躯。安於塚前。妻氏自夢之日有娠。既誕。 T2039_.49.0973c24: 因名竹旨。壯而出仕。與庾信公爲副帥。統三 T2039_.49.0973c25: 韓。眞徳太宗文武神文四代爲塚宰。安定厥 T2039_.49.0973c26: 邦。初得烏谷慕郎而作歌曰 T2039_.49.0973c27: 去隱春皆理米 毛冬居叱沙哭屋尸 T2039_.49.0973c28: 以憂音 阿冬音乃叱好支賜烏隱 貌 T2039_.49.0973c29: 史年數就音墮支行齊 目煙迴於尸七 T2039_.49.0974a01: 史伊衣 逢鳥支惡知作乎下是 郎 T2039_.49.0974a02: 也慕理尸心未 行乎尸道尸 蓬次叱 T2039_.49.0974a03: 巷中宿尸夜音有叱下是 T2039_.49.0974a04: 聖徳王 T2039_.49.0974a05: 第三十三聖徳王。神龍二年丙午。歳禾不 T2039_.49.0974a06: 登。人民飢甚。丁未正月初一日至七月三十 T2039_.49.0974a07: 日救民給租。一口一日三升爲式。終事而 T2039_.49.0974a08: 計三十萬五百碩也 王爲太宗大王剏奉徳
T2039_.49.0974a14: 躅花盛開。公之夫人水路見之謂左右曰。折 T2039_.49.0974a15: 花獻者其誰。從者曰。非人跡所到。皆辭不能 T2039_.49.0974a16: 傍有老翁牽牸牛而過者。聞夫人言折其花 T2039_.49.0974a17: 亦作歌詞獻之。其翁不知何許人也。便行二 T2039_.49.0974a18: 日程。又有臨海亭。晝偘次海龍忽攬夫人入 T2039_.49.0974a19: 海。公顛倒躄地。計無所出。又有一老人告曰。 T2039_.49.0974a20: 故人有言。衆口鑠金。今海中傍生。何不畏衆 T2039_.49.0974a21: 口乎。宜進界内民。作歌唱之。以杖打岸。則可 T2039_.49.0974a22: 見夫人矣。公從之。龍奉夫人出海獻之。公問 T2039_.49.0974a23: 夫人海中事。四七寶宮殿。所偘甘滑香潔。 T2039_.49.0974a24: 非人間煙火。此夫人衣襲異香。非世所聞。水 T2039_.49.0974a25: 路姿容絶代。毎經過深山大澤。屡被神物掠 T2039_.49.0974a26: 攬。衆人唱海歌。詞曰 T2039_.49.0974a27: 龜乎龜乎出水路 掠人婦女罪何極 T2039_.49.0974a28: 汝若㥬逆不出獻 入網捕掠燔之喫 T2039_.49.0974a29: 老人獻花歌曰 T2039_.49.0974b01: 紫布岩乎過希執音乎手母牛放教遣 T2039_.49.0974b02: 吾肹不喩慚肹伊賜等 花肹折叱可獻 T2039_.49.0974b03: 乎理音如 T2039_.49.0974b04: 孝成王 T2039_.49.0974b05: 開元十年壬戌十月。始築關門於毛火郡。今 T2039_.49.0974b06: 毛火村。屬慶州東南境。乃防日本塞垣也。周 T2039_.49.0974b07: 迴六千七百九十二歩五尺。役徒三萬九千 T2039_.49.0974b08: 二百六十二人。掌員元眞角干。開元二十一 T2039_.49.0974b09: 年癸酉。唐人欲征北犾。請兵新羅。客使六 T2039_.49.0974b10: 百四人來还國 T2039_.49.0974b11: 景徳王 忠談師 表訓大徳 T2039_.49.0974b12: 徳經等大王備禮受之。王御國二十四年。五 T2039_.49.0974b13: 岳三山神等時或現侍於殿庭。三月三日。王 T2039_.49.0974b14: 御敀正門樓上。謂左右曰。誰能途中得一員 T2039_.49.0974b15: 榮服僧來。於是適有一大徳。威儀鮮潔。徜徉 T2039_.49.0974b16: 而行。左右望而引見之。王曰。非吾所謂榮僧
T2039_.49.0974b19: 已。曰。汝爲誰耶。僧曰志談。曰。何所歸來。僧 T2039_.49.0974b20: 曰。僧毎重三重九之日。烹茶饗南山三花嶺 T2039_.49.0974b21: 彌勒世尊。今茲既獻而還矣。王曰。寡人亦一 T2039_.49.0974b22: 甌茶有分乎。僧乃煎茶獻之。茶之氣味異常。 T2039_.49.0974b23: 甌中異香郁烈。王曰。朕甞聞師讃耆婆郎詞 T2039_.49.0974b24: 腦歌。其意甚高。是其果乎。對曰然。王曰。然 T2039_.49.0974b25: 則爲朕作理安民歌。僧應時。奉勅歌呈之。王 T2039_.49.0974b26: 佳之。封王師焉。僧再拜固辭不受。安民歌曰 T2039_.49.0974b27: 君隱父也 臣隱愛賜尸母史也 民焉 T2039_.49.0974b28: 狂尸恨阿孩古爲賜尸知民是愛尸知古 T2039_.49.0974b29: 如 窟理叱大肹生以支所音物生此肹 T2039_.49.0974c01: 喰惡支治良羅 此地肹捨遣只於冬是 T2039_.49.0974c02: 去於丁 爲尸知國惡支持以 支知 T2039_.49.0974c03: 右如後句 君如臣多支民隱如 爲 T2039_.49.0974c04: 内尸等焉國惡太平恨音叱如 T2039_.49.0974c05: 讃耆婆郎歌曰 T2039_.49.0974c06: 咽嗚爾處米 露曉邪隱月羅理 白雲 T2039_.49.0974c07: 音逐于浮去隱安支下 沙是八陵隱汀 T2039_.49.0974c08: 理也中 耆郎矣貌史是史薮邪 逸烏 T2039_.49.0974c09: 川理叱磧惡希 郎也持以支如賜烏隱 T2039_.49.0974c10: 心未際叱肹逐内良齊 阿耶 柏史叱 T2039_.49.0974c11: 枝次高支好 雪是毛冬乃乎尸花判也 T2039_.49.0974c12: 王玉莖長八寸無子廢之。封沙梁夫人。後妃 T2039_.49.0974c13: 滿月夫人謚景垂大后。依忠角干之女也。王 T2039_.49.0974c14: 一日詔表訓大徳曰。朕無祐不獲其嗣。願大 T2039_.49.0974c15: 徳請於上帝而有之。訓上告於天帝。還來奏 T2039_.49.0974c16: 云。帝有言。求女即可。男即不宜。王曰。願轉 T2039_.49.0974c17: 女成男。訓再上天請之。帝曰。可則可矣。然爲 T2039_.49.0974c18: 男則國殆矣。訓欲下時。帝又召曰。天與人不 T2039_.49.0974c19: 可亂。今師往來如隣里。漏洩天機。今後宜更 T2039_.49.0974c20: 不通。訓來以天語諭之。王曰。國雖殆。得男而 T2039_.49.0974c21: 爲嗣足矣。於是滿月王后生太子。王喜甚。至 T2039_.49.0974c22: 八歳王崩。太子即位。是爲惠恭大王。幼冲故 T2039_.49.0974c23: *大后臨朝。政條不理。盜賊蜂起。不遑備禦。 T2039_.49.0974c24: 訓師之説驗矣。小帝既女爲男故。自期晬至 T2039_.49.0974c25: 於登位。常爲婦女之戲。好佩錦嚢。與道流爲 T2039_.49.0974c26: 戲。故國有大亂。修爲宣徳與金良相所弑。自 T2039_.49.0974c27: 表訓後。聖人不生於新羅云 T2039_.49.0974c28: 惠恭王 T2039_.49.0974c29: 大暦之初。康州官署大堂之東。地漸陷成池
T2039_.49.0975a02: 於東樓南。頭如瓮。尾三尺許。色如烈火。天地 T2039_.49.0975a03: 亦振。又是年。今浦縣稻田五頃中皆米顆成 T2039_.49.0975a04: 穗。是年七月。北宮庭中先有二星墜地。又一 T2039_.49.0975a05: 星墜。三星皆沒入地。先時宮北厠圊中二莖 T2039_.49.0975a06: 蓮生。又奉聖寺田中生蓮。虎入禁城中。追覓 T2039_.49.0975a07: 失之。角干大恭家梨木上雀集無數。據安國 T2039_.49.0975a08: 兵法下卷云。天下兵大亂。於是大赦修省。七 T2039_.49.0975a09: 月三日。大恭角干賊起。王都及五道州郡并 T2039_.49.0975a10: 九十六角干相戰大亂。大恭角干家亡。輸其 T2039_.49.0975a11: 家資寶帛于王宮。新城長倉火燒。逆黨之寶 T2039_.49.0975a12: 穀在沙梁牟梁等里中者。亦輸入王宮。亂彌 T2039_.49.0975a13: 三朔乃息。被賞者頗多。誅死者無算也。表訓 T2039_.49.0975a14: 之言國殆是也 T2039_.49.0975a15: 元聖大王 T2039_.49.0975a16: 伊飱金周元初爲上宰。王爲角干居二宰。夢 T2039_.49.0975a17: 脱襆頭著素笠。把十二絃琴入於天官寺井 T2039_.49.0975a18: 中。覺而使人占之。曰。脱襆頭者失職之兆。把 T2039_.49.0975a19: 琴者著枷之兆。入井入獄之兆。王聞之甚患。 T2039_.49.0975a20: 杜門不出。于時阿飱餘三或本餘山來通謁。 T2039_.49.0975a21: 王辭以疾不出。再通曰。願得一見。王諾之。阿 T2039_.49.0975a22: 飱曰。公所忌何事。王具説占夢之由。阿飱興 T2039_.49.0975a23: 拜曰。此乃吉祥之夢。公若登大位而不遺 T2039_.49.0975a24: 我。則爲公解之。王乃辟禁左右而請解之。 T2039_.49.0975a25: 曰。脱襆頭者。人無居上也。著素笠者。冕旒之 T2039_.49.0975a26: 兆也。把十二絃琴者。十二孫傳世之兆也。入 T2039_.49.0975a27: 天官井。入宮禁之瑞也。王曰。上有周元。何居 T2039_.49.0975a28: 上位。阿飱曰。請密祀北川神可矣。從之。未幾 T2039_.49.0975a29: 宣徳王崩。國人欲奉周元爲王。將迎入宮。家 T2039_.49.0975b01: 在川北。忽川漲不得渡。王先入宮即位。上宰 T2039_.49.0975b02: 之徒衆皆來附之。拜賀新登之主。是爲元聖 T2039_.49.0975b03: 大王。諱敬信金武。蓋厚夢之應也。周元退居 T2039_.49.0975b04: 溟州。王既登極。時餘山已卒矣。召其子孫賜 T2039_.49.0975b05: 爵。王之孫有五人。惠忠太子。憲平太子。禮英 T2039_.49.0975b06: 匝干。大龍夫人。小龍夫人等也。大王誠知窮
T2039_.49.0975b09: 厚荷天恩。其徳遠輝。貞元二年丙寅十月十
T2039_.49.0975b13: 世眞平王代有之耳。今不知所在。明年七月 T2039_.49.0975b14: 七日。更遣使以金一千兩請之曰。寡人願得 T2039_.49.0975b15: 見神物而還之矣。王亦辭以前對。以銀三千 T2039_.49.0975b16: 兩賜其使。還金而不受。八月使還。藏其笛於 T2039_.49.0975b17: 内黄殿。王即位十一年乙亥。唐使來京。留一 T2039_.49.0975b18: 朔而还。後一日有二女進内庭。奏曰。妾等
T2039_.49.0975b22: 小魚。筒貯而歸。願陛下勅二人。留我夫等。護 T2039_.49.0975b23: 國龍也。王追至河陽館。親賜享宴。勅河西人 T2039_.49.0975b24: 曰。爾輩何得取我三龍至此。若不以實告。必 T2039_.49.0975b25: 加極刑。於是出三魚獻之。使放於三處。各湧 T2039_.49.0975b26: 水丈餘。喜躍而逝。唐人服王之明聖。王一日
T2039_.49.0975c02: 何以報之。隔數日。黿吐一小珠。如欲贈遺。沙 T2039_.49.0975c03: 彌得其珠繋於帶端。自後大王見沙彌愛重。 T2039_.49.0975c04: 邀致内殿。不離左右。時有一匝干奉使於唐。 T2039_.49.0975c05: 亦愛沙彌。請與倶行。王許之。同入於唐。唐帝 T2039_.49.0975c06: 亦見沙彌而寵愛。承相左右莫不尊信。有一 T2039_.49.0975c07: 相士奏曰。審此沙彌。無一吉相。得人信敬。必 T2039_.49.0975c08: 有所持異物。使人撿看。得帶端小珠。帝曰。朕 T2039_.49.0975c09: 有如意珠四枚。前年失一个。今見此珠。乃 T2039_.49.0975c10: 吾所失也。帝問沙彌。沙彌具陳其事。帝内失 T2039_.49.0975c11: 珠之日。與沙彌得珠同日。帝留其珠而遣之。 T2039_.49.0975c12: 後人無愛信此沙彌者。王之陵在吐含岳西
T2039_.49.0975c15: 祖義官匝干爲神英大王。高祖法宣大阿干 T2039_.49.0975c16: 爲玄聖大王。玄聖大王。玄聖之考即摩叱次 T2039_.49.0975c17: 匝干 T2039_.49.0975c18: 早雪 T2039_.49.0975c19: 第四十哀莊王。末年戊子。八月十五日有雪 T2039_.49.0975c20: 第四十一憲徳王。元和十三年戊戌。三月
T2039_.49.0975c23: 月一日。天地晦暗 T2039_.49.0975c24: 興徳王 鸚鵡 T2039_.49.0975c25: 第四十二興徳大王。寶暦二年丙午即位。未 T2039_.49.0975c26: 幾有人奉使於唐。將鸚鵡一雙而至。不久雌 T2039_.49.0975c27: 死。而孤雄哀鳴不已。王使人掛鏡於前。鳥見 T2039_.49.0975c28: 鏡中影。擬其得偶。乃啅其鏡而知其影。乃哀 T2039_.49.0975c29: 鳴而死。王作歌云。未詳 T2039_.49.0976a01: 神武大王 閻長 弓巴 T2039_.49.0976a02: 第四十五神武大王潜邸時。謂侠土弓巴曰。 T2039_.49.0976a03: 我有不同天之讎。汝能爲我除之。獲居大位。 T2039_.49.0976a04: 則娶爾女爲妃。弓巴許之。協心同力。擧兵犯 T2039_.49.0976a05: 京師。能成其事。既簒位。欲以巴之女爲妃。群 T2039_.49.0976a06: 臣極諫曰巴側微。上以其女爲妃。則不可。王 T2039_.49.0976a07: 從之。時巴在清海鎭爲軍戍。怨王之違言欲 T2039_.49.0976a08: 謀亂。時將軍閻長聞之奏曰。巴將爲不忠。小 T2039_.49.0976a09: 臣請除之。王喜許之。閻長承旨歸清海鎭。見 T2039_.49.0976a10: 謁者通曰。僕有小怨於國君。欲投明公以全 T2039_.49.0976a11: 身命。巴聞之大怒曰。爾輩諫於王而廢我女。 T2039_.49.0976a12: 胡顧見我乎。長復通曰。是百官之所諫。我不 T2039_.49.0976a13: 預謀。明公無嫌也。巴聞之引入廳事。謂曰。卿 T2039_.49.0976a14: 以何事來此。長曰。有忤於王。欲投幕下以免 T2039_.49.0976a15: 害爾。巴曰幸矣。置酒歡甚。長取巴之長劍斬 T2039_.49.0976a16: 之。麾下軍士驚懾皆伏地。長引至京師。復命 T2039_.49.0976a17: 曰。已斬弓巴矣。上喜賞之。賜爵阿干 T2039_.49.0976a18: 四十八景文大王 T2039_.49.0976a19: 王諱膺廉。年十八爲國仙。至於弱冠。憲安大 T2039_.49.0976a20: 王召郎。宴於殿中。問曰。郎爲國仙優遊四方。 T2039_.49.0976a21: 見何異事。郎曰。臣見有美行者三。王曰。請聞 T2039_.49.0976a22: 其説。郎曰。有人爲人上者。而撝謙坐於人下。 T2039_.49.0976a23: 其一也。有人豪富而衣儉易。其二也。有人本 T2039_.49.0976a24: 貴勢而不用其威者。三也。王聞其言而知其 T2039_.49.0976a25: 賢。不覺墮涙而謂曰。朕有二女。請以奉巾櫛。 T2039_.49.0976a26: 郎避席而拜之。稽首而退。告於父母。父母驚 T2039_.49.0976a27: 喜。會其子弟議曰。王之上公主貌甚寒寢。第 T2039_.49.0976a28: 二公主甚美。娶之幸矣。郎之徒上首範教師 T2039_.49.0976a29: 者聞之。至於家問郎曰。大王欲以公主妻公。 T2039_.49.0976b01: 信乎。郎曰然。曰奚娶。郎曰。二親命我宜弟 T2039_.49.0976b02: 師曰。郎若娶弟則予必死於郎之面前。娶其 T2039_.49.0976b03: 兄則必有三美。誡之哉。郎曰聞命矣。既而王 T2039_.49.0976b04: 擇辰而使於郎曰。二女惟公所命。使歸以郎 T2039_.49.0976b05: 意奏曰。奉長公主爾。既而過三朔。王疾革。召 T2039_.49.0976b06: 群臣曰。朕無男孫。窀穸之事。宜長女之夫膺 T2039_.49.0976b07: 廉繼之。翌日王崩。郎奉遺詔即位。於是範教 T2039_.49.0976b08: 師詣於王曰。吾所陳三美者。今皆著矣。娶長 T2039_.49.0976b09: 故。今登位一也。昔之欽艶第主。今易可取二 T2039_.49.0976b10: 也。娶兄故。王與夫人喜甚三也。王徳其言。爵 T2039_.49.0976b11: 爲大徳。賜金一百三十兩。王崩。謚曰景文。王 T2039_.49.0976b12: 之寢殿。毎日暮無數衆蛇倶集。宮人驚怖。將 T2039_.49.0976b13: 驅遣之。王曰。寡人若無蛇不得安寢。宜無禁。 T2039_.49.0976b14: 毎寢吐舌滿胸。鋪之乃登位。王耳忽長如驢 T2039_.49.0976b15: 耳。王后及宮人皆未知。唯襆頭匠一人知之。 T2039_.49.0976b16: 然生平不向人説。其人將死。入道林寺竹林 T2039_.49.0976b17: 中。無人處向竹唱云。吾君耳如驢耳。其後風 T2039_.49.0976b18: 吹則竹聲云吾君耳如驢耳。王惡之。乃伐竹
T2039_.49.0976b22: 使心弼舍知授針卷送大炬和尚處。令作三 T2039_.49.0976b23: 歌。初名玄琴抱曲。第二大道曲。第三問群曲。 T2039_.49.0976b24: 入奏於王。王大喜稱賞。歌未詳 T2039_.49.0976b25: 處容郎 望海寺 T2039_.49.0976b26: 第四十九憲康大王之代。自京師至於海内。 T2039_.49.0976b27: 比屋連牆無一草屋。笙歌不絶道路。風雨調
T2039_.49.0976c01: 問左右。日官奏云。此東海龍所變也。宜行勝 T2039_.49.0976c02: 事以解之。於是勅有司爲龍剏佛寺。近境施 T2039_.49.0976c03: 令已出。雲開霧散。因名開雲浦。東海龍喜。乃 T2039_.49.0976c04: 率七子現於駕前。讃徳獻舞奏樂。其一子隨 T2039_.49.0976c05: 駕入京。輔佐王政。名曰處容。王以美女妻之。 T2039_.49.0976c06: 欲留其意。又賜級干職。其妻甚美。疫神欽慕 T2039_.49.0976c07: 之。變無人夜至其家。竊與之宿。處容自外至。 T2039_.49.0976c08: 其家見寢有二人。乃唱歌作舞而退。歌曰 T2039_.49.0976c09: 東京明期月良夜入伊遊行如可入良沙 T2039_.49.0976c10: 寢矣見昆脚烏伊四是良羅二隱吾下 T2039_.49.0976c11: 於叱古二隱誰支下焉古本矣吾下是 T2039_.49.0976c12: 如馬於隱奪叱良乙何如爲理古 T2039_.49.0976c13: 時神現形。跪於前曰。吾羡公之妻。今犯之矣。 T2039_.49.0976c14: 公不見怒。感而美之。誓今已後。見畫公之形 T2039_.49.0976c15: 容。不入其門矣。因此國人門帖處容之形。以 T2039_.49.0976c16: 僻邪進慶。王既還。乃卜靈鷲山東麓勝地置 T2039_.49.0976c17: 寺。曰望海寺。亦名新房寺。乃爲龍而置也。又 T2039_.49.0976c18: 幸鮑石亭。南山神現舞於御前。左右不見。王 T2039_.49.0976c19: 獨見之。有人現舞於前。王自作舞。以像示之。 T2039_.49.0976c20: 神之名或曰祥審。故至今國人傳此舞。曰御 T2039_.49.0976c21: 舞祥審。或曰御舞山神。或云。既神出舞。審象 T2039_.49.0976c22: 其貌。命工摹刻。以示後代。故云象審。或云霜 T2039_.49.0976c23: 髯舞。此乃以其形稱之。又幸於金剛嶺時。北 T2039_.49.0976c24: 岳神呈舞。名玉刀鈐。又同體殿宴時。地神出 T2039_.49.0976c25: 舞。名地伯級干。語法集云。干時山神獻舞。唱 T2039_.49.0976c26: 歌云。智理多都波都波等者。蓋言以智理國 T2039_.49.0976c27: 者。知而多逃。都邑將破云謂也。乃地神山神 T2039_.49.0976c28: 知國將亡。故作舞以警之。國人不悟。謂爲現 T2039_.49.0976c29: 瑞。耽樂滋甚。故國終亡 T2039_.49.0977a01: 眞聖女大王 居陀知 T2039_.49.0977a02: 第五十一眞聖女王。臨朝有年。乳母鳬好夫 T2039_.49.0977a03: 人。與其夫魏弘匝干等三四寵臣。擅權撓政。 T2039_.49.0977a04: 盜賊蜂起。國人患之。乃作陀羅尼隱語書投 T2039_.49.0977a05: 路上。王與權臣等得之。謂曰。此非王居仁誰 T2039_.49.0977a06: 作此文。乃囚居仁於獄。居仁作詩訴于天。天 T2039_.49.0977a07: 乃震其獄囚以免之。詩曰 T2039_.49.0977a08: 燕丹泣血虹穿日 鄒衍含悲夏落霜 T2039_.49.0977a09: 今我失途還似舊 皇天何事不垂祥 T2039_.49.0977a10: 陀羅尼曰 T2039_.49.0977a11: 南無亡國 刹尼那帝 判尼判尼蘇判 T2039_.49.0977a12: 尼。于于三阿干 鳬伊娑婆訶 T2039_.49.0977a13: 説者云。刹尼那帝者。言女主也。判尼判尼蘇 T2039_.49.0977a14: 判尼者。言二蘇判也。蘇判爵名。于于三阿 T2039_.49.0977a15: 十也。鳬伊者。言鳬好也 此王代阿飱良貝 T2039_.49.0977a16: 王之季子也。奉使於唐。聞百濟海賊梗於津
T2039_.49.0977a19: 神池。祭之可矣。於是具奠於池上。池水湧高 T2039_.49.0977a20: 丈餘。夜夢有老人。謂公曰。善射一人留此島 T2039_.49.0977a21: 中。可得便風。公覺而以事諮於左右曰。留誰 T2039_.49.0977a22: 可矣。衆人曰。宜以木簡五十片書我輩名。沈 T2039_.49.0977a23: 水而鬮之。公從之。軍士有居陀知者。名沈水 T2039_.49.0977a24: 中。乃留其人。便風忽起。舡進無滯。居陀愁 T2039_.49.0977a25: 立島嶼。忽有老人。從池而出。謂曰。我是西海 T2039_.49.0977a26: 若。毎一沙彌日出之時。從天而降。誦陀羅尼。 T2039_.49.0977a27: 三繞此池。我之夫婦子孫皆浮水上。沙彌取 T2039_.49.0977a28: 吾子孫肝腸食之盡矣。唯存吾夫婦與一女 T2039_.49.0977a29: 爾。來朝又必來。請君射之。居陀曰。弓矢之事 T2039_.49.0977b01: 吾所長也。聞命矣。老人謝之而沒。居陀隱伏 T2039_.49.0977b02: 而待。明日扶桑既暾。沙彌果來。誦呪如前。欲 T2039_.49.0977b03: 取老龍肝。時居陀射之。中沙彌。即變老狐。墜 T2039_.49.0977b04: 地而斃。於是老人出而謝曰。受公之賜。全我 T2039_.49.0977b05: 性命。請以女子妻之。居陀曰。見賜不遺。固 T2039_.49.0977b06: 所願也。老人以其女。變作一枝花。納之懷中。 T2039_.49.0977b07: 仍命二龍。捧居陀趂及。使舡仍護其舡入於 T2039_.49.0977b08: 唐境。唐人見新羅舡。有二龍負之。具事上 T2039_.49.0977b09: 聞。帝曰。新羅之使必非常人。賜宴坐於群臣 T2039_.49.0977b10: 之上。厚以金帛遺之。既还國。居陀出花枝。變 T2039_.49.0977b11: 女同居焉 T2039_.49.0977b12: 靈廟寺
T2039_.49.0977b17: 月。斬浦水與海水波相鬪三日 T2039_.49.0977b18: 景明王 T2039_.49.0977b19: 第五十四景明王代。貞明五年戊寅。四天王 T2039_.49.0977b20: 寺壁畫狗鳴。説經三日壤之。大半日又鳴。 T2039_.49.0977b21: 七年庚辰二月。皇龍寺塔影倒立於今毛舍 T2039_.49.0977b22: 知家庭中一朔。又十月。四天王寺五方神弓 T2039_.49.0977b23: 絃皆絶。壁畫狗出走庭中。還入壁中 T2039_.49.0977b24: 景哀王 T2039_.49.0977b25: 第五十五景哀王即位。同光二年甲辰二月 T2039_.49.0977b26: 十九日。皇龍寺説百座説經。兼飯禪僧三百。 T2039_.49.0977b27: 大王親行香致供。此百座通説禪教之始 T2039_.49.0977b28: 金傳大王 T2039_.49.0977b29: 第五十六金傳大王。謚敬順。天成二年丁亥 T2039_.49.0977c01: 九月。百濟甄萱侵羅至高欝府。景哀王請救 T2039_.49.0977c02: 於我太祖。命將以勁兵一萬往救之。救兵未 T2039_.49.0977c03: 至。萱以冬十一月掩入王京。王與妃嬪宗戚 T2039_.49.0977c04: 遊鮑石亭宴娯。不覺兵至。倉卒不知所爲。王 T2039_.49.0977c05: 與妃奔入後宮。宗戚及公卿大夫士女四散 T2039_.49.0977c06: 奔走。爲賊所虜。無貴賎匍匐乞爲奴婢。萱縱 T2039_.49.0977c07: 兵摽掠公私財物。入處王宮。乃命左右索王。 T2039_.49.0977c08: 王與妃妾數人匿在後宮。拘致軍中。逼令王 T2039_.49.0977c09: 自進。而強淫王妃。縱其下亂其嬪妾。乃立王 T2039_.49.0977c10: 之族弟傳爲王。王爲萱所擧即位。前王尸殯 T2039_.49.0977c11: 於西堂。與群下慟哭。我太祖遣使弔祭。明 T2039_.49.0977c12: 年戊子春三月。太祖率五十餘騎巡到京畿。 T2039_.49.0977c13: 王與百官郊迎。入相對。曲盡情禮。置宴臨 T2039_.49.0977c14: 海殿。酒酣。王言曰。吾以不天浸致禍亂。甄萱 T2039_.49.0977c15: 恣行不義。喪我國家。何如之。因泣然涕泣。 T2039_.49.0977c16: 左右莫不嗚咽。太祖亦流涕。因留數旬乃迴 T2039_.49.0977c17: 駕。麾下肅靜。不犯秋毫。都人士女相慶曰。 T2039_.49.0977c18: 昔甄氏之來也。如逢犲虎。今王公之至。如見 T2039_.49.0977c19: 父母。八月。太祖遣使遺王錦衫鞍馬。并賜 T2039_.49.0977c20: 群僚將士有差。清泰二年乙未十月。以四方 T2039_.49.0977c21: 地盡爲他有。國弱勢孤。不己自安。乃與群 T2039_.49.0977c22: 下謀。擧土降太祖。群臣可否。紛然不已。王太 T2039_.49.0977c23: 子曰。國之存亡必有天命。當與忠臣義士收 T2039_.49.0977c24: 合心。力盡而後已。豈可以一千年之社稷。 T2039_.49.0977c25: 輕以與人。王曰。孤危若此。勢不能全。既不能 T2039_.49.0977c26: 強。又不能弱。至使無辜之民。肝腦塗地。吾。 T2039_.49.0977c27: 所不能忍也。乃使侍郎金封休齎書。請降於 T2039_.49.0977c28: 太祖。太子哭泣辭王。徑往皆骨山。麻衣草 T2039_.49.0977c29: 食。以終其身。季子祝髮肆華嚴。爲浮圖。名梵 T2039_.49.0978a01: 空。後住法水海印寺云。太祖受書。送太相王 T2039_.49.0978a02: 鐵迎之。王率百僚歸我太祖。香車寶馬連亘 T2039_.49.0978a03: 三十餘里。道路填咽。觀者如堵。太祖出郊迎
T2039_.49.0978a06: 主。謚孝穆。封爲正承。位在太子之上。給祿一 T2039_.49.0978a07: 千石。侍從員將皆録用之。改新羅爲慶州。以 T2039_.49.0978a08: 爲公之食邑。初王納土來降。太祖喜甚。待 T2039_.49.0978a09: 之厚禮。使告曰。今王以國與寡人。其爲賜 T2039_.49.0978a10: 大矣。願結婚於宗室。以永甥舅之好。王答曰。
T2039_.49.0978a17: 憲承皇后。仍封政承爲尚父。太平興國三 T2039_.49.0978a18: 年戊寅崩。謚曰敬順。册尚父誥曰。勅。姫周 T2039_.49.0978a19: 啓聖之初。先封呂主。劉漢興王之始。首開 T2039_.49.0978a20: 簫何。自大定寰區。廣開基業。立龍圖三十代。 T2039_.49.0978a21: 躡麟趾四百年。日月重明。乾坤交泰。雖自無 T2039_.49.0978a22: 爲之主。乃開致理之臣。觀光順化衞國功臣 T2039_.49.0978a23: 上柱國樂浪王政承食邑八千戸金傳。世雞 T2039_.49.0978a24: 林。官分王爵。英烈振凌雲之氣。文章騰擲 T2039_.49.0978a25: 地之才。富有春秋。貴居茅土。六韜三略。拘入 T2039_.49.0978a26: 胸襟。七縱五申。撮歸指掌。我太祖始修睦 T2039_.49.0978a27: 之好。早認餘風。尋頒駙馬之姻。内酬大節。 T2039_.49.0978a28: 家國既歸於一統。君臣宛合於三韓。顯播令 T2039_.49.0978a29: 名。光崇懿範。可加號尚父都省令。仍賜推忠 T2039_.49.0978b01: 愼義崇徳守節功臣號。勳封如故。食邑通前 T2039_.49.0978b02: 爲一萬戸。有司擇日備禮册命。主者施行。開 T2039_.49.0978b03: 寶八年十月日。大匡内議令兼總翰林臣翮 T2039_.49.0978b04: 宣奉行。奉勅如右。牒到奉行。開寶八年十月 T2039_.49.0978b05: 日侍中署。侍中署。内奉令署。軍部令署。軍部 T2039_.49.0978b06: 令無署。兵部令無署。兵部令署。廣坪侍郎署。 T2039_.49.0978b07: 廣坪侍郎無署。内奉侍郎無署。内奉侍郎署。 T2039_.49.0978b08: 軍部卿無署。軍部卿署。兵部卿無署。兵部卿 T2039_.49.0978b09: 署。告推忠愼義崇徳守節功臣。尚父都省令。 T2039_.49.0978b10: 上柱國樂浪都王。食邑一萬戸。金傳奉勅如 T2039_.49.0978b11: 右。符到奉行。主事無名。郎中無名。書令史無 T2039_.49.0978b12: 名。孔目無名。開寶八年十月日下 T2039_.49.0978b13: 史論曰。新羅朴氏昔氏。皆自卵生。金氏從天 T2039_.49.0978b14: 入金櫃而降。或云乘金車。此尤詭怪不可信。 T2039_.49.0978b15: 然世俗相傳爲實事。今但厚厥初。在上者。 T2039_.49.0978b16: 其爲已也儉。其爲人也寛。其設官也略。其行 T2039_.49.0978b17: 事也簡。以至誠事中國。梯航朝聘之使。相續 T2039_.49.0978b18: 不絶。常遣子弟。造朝宿衞。入學而誦習。于 T2039_.49.0978b19: 以襲聖賢之風化。革鴻荒之俗。爲禮義之邦。 T2039_.49.0978b20: 又憑王師之威靈。平百濟高句麗。取其地郡 T2039_.49.0978b21: 縣可謂盛矣。然而奉浮屠之法。不知其弊。 T2039_.49.0978b22: 至使閭里比其塔廟。齊民逃於緇褐。兵農侵 T2039_.49.0978b23: 小而國家日衰。幾何其不亂且亡也哉。於是 T2039_.49.0978b24: 時。景哀王加之以荒樂。與宮人左右出遊鮑 T2039_.49.0978b25: 石亭。置酒燕衞。不知甄萱之至。與門外韓 T2039_.49.0978b26: 檎虎樓頭張麗華無以異矣。若敬順之歸命 T2039_.49.0978b27: 太祖。雖非獲已。亦可佳矣。向若力戰守死。以 T2039_.49.0978b28: 抗王師。至於力屈勢窮。即必覆其家族。害 T2039_.49.0978b29: 及于無辜之民。而乃不待告命。封府庫。籍 T2039_.49.0978c01: 群難。以歸之。其有功於朝廷。有徳於生民 T2039_.49.0978c02: 甚大。昔錢民以呉越入宋。蘇子贍謂之忠 T2039_.49.0978c03: 臣。今新羅功徳過於彼遠矣。我太祖妃嬪衆 T2039_.49.0978c04: 多。其子孫亦繁衍。而顯宗自新羅外孫即寶 T2039_.49.0978c05: 位。此後繼統者皆其子孫。豈非陰徳也歟。 T2039_.49.0978c06: 新羅既納土國除。阿干神會罷外署还。見都 T2039_.49.0978c07: 城離潰。有黍離離嘆。乃作歌。歌亡未詳 T2039_.49.0978c08: 南扶餘 前百濟 北扶餘 已 T2039_.49.0978c09: 見上 T2039_.49.0978c10: 扶餘郡者。前百濟王都也。或稱所夫里郡。按 T2039_.49.0978c11: 三國史記。百濟聖王二十六年戊午春。移都 T2039_.49.0978c12: 於泗泚。國號南扶餘。注曰。其地名所夫里。泗 T2039_.49.0978c13: 泚。今之古省津也。所夫里者。扶餘之別號也。 T2039_.49.0978c14: 已上注。又按量田帳籍。曰所夫里郡田丁。 T2039_.49.0978c15: 柱貼今言扶餘郡者。復上古之名也。百濟王 T2039_.49.0978c16: 姓扶氏。故稱之。或稱餘州者。郡西資福寺高 T2039_.49.0978c17: 座之上。有繍帳焉。其繍文曰。統和十五年丁 T2039_.49.0978c18: 酉五月日餘州功徳大寺繍帳。又昔者河南 T2039_.49.0978c19: 置林州刺史。其時圖籍之内。有餘州二字。林 T2039_.49.0978c20: 州。今佳林郡也。餘州。今之扶餘郡也。百濟地 T2039_.49.0978c21: 理志曰。後漢書曰。三韓凡七十八國。百濟是 T2039_.49.0978c22: 其一國焉。北史云。百濟東極新羅。西南限大 T2039_.49.0978c23: 海。北際漢江。其郡曰居扶城。又云固麻城。 T2039_.49.0978c24: 其外更有五方城。通典云。百濟南接新羅。 T2039_.49.0978c25: 北距高麗。西限大海。舊唐書云。百濟。抉 T2039_.49.0978c26: 夫之別種。東北新羅。西渡海越州。南渡海 T2039_.49.0978c27: 至倭北高麗。其王所居。有東西兩城。新唐 T2039_.49.0978c28: 書云。百濟西界越州。南倭。皆踰海。北高麗 T2039_.49.0978c29: □史本記云。百濟始祖温祚。其父雛牟王。 T2039_.49.0979a01: 或云。朱蒙自北扶餘逃難。至卒本扶餘。州 T2039_.49.0979a02: 之王無子。只有三女。見朱蒙知非常人。以第 T2039_.49.0979a03: 二女妻之。未幾。扶餘州王薨。朱蒙嗣位。生二 T2039_.49.0979a04: 子。長曰沸流。次曰温祚。恐後太子所不容。 T2039_.49.0979a05: 遂與烏干馬黎等臣南行。百姓從之者多。遂 T2039_.49.0979a06: 至漢山。登負兒岳。望可居之地。沸流欲居於 T2039_.49.0979a07: 海濱。十臣諫曰。惟此河南之地。北帶漢水。東 T2039_.49.0979a08: 據高岳。南望沃澤。西阻大海。其天險地利。難 T2039_.49.0979a09: 得之勢。作都於斯。不亦宜乎。沸流不聽。分其 T2039_.49.0979a10: 民歸彌雛忽居之。温祚都河南慰禮城。以十 T2039_.49.0979a11: 臣爲輔翼。國號十濟。是漢成帝鴻佳三年 T2039_.49.0979a12: 也。沸流以彌雛忽士濕水鹹。不得安居歸。見 T2039_.49.0979a13: 慰禮都邑鼎定。人民安泰。遂慚悔而死。其臣 T2039_.49.0979a14: 民皆歸於慰禮城。後以來時百姓樂悦。改號 T2039_.49.0979a15: 百濟。其世系與高句麗同出扶餘。故以解
T2039_.49.0979a25: 義慈王。歴一百二十年。至唐顯慶五年。是義 T2039_.49.0979a26: 慈王在位二十年。新羅金庾信與蘇定方討 T2039_.49.0979a27: 平之。百濟國舊有五部。分統三十七郡。二百 T2039_.49.0979a28: 濟城。七十六萬戸。唐以地。分置熊津馬韓 T2039_.49.0979a29: 東明金漣徳安等五都督府。仍其酋長爲都 T2039_.49.0979b01: 督府刺史。未幾。新羅盡并其地。置熊全武三 T2039_.49.0979b02: 州及諸郡縣 又虎嵓寺有政事嵓。國家將 T2039_.49.0979b03: 議宰相。則書當選者名。或三四函封置嵓上。 T2039_.49.0979b04: 須臾取看。名上有印跡者爲相。故名之 又 T2039_.49.0979b05: 泗泚河邊有一嵓。蘇定方嘗坐此上。釣魚龍 T2039_.49.0979b06: 而出。故嵓上有龍跪之跡。因名龍嵓 又郡 T2039_.49.0979b07: 中有三山。曰日山呉山浮山。國家全盛之時。 T2039_.49.0979b08: 各有神人居其上。飛相往來。朝夕不絶 又 T2039_.49.0979b09: 泗泚崖又有一石。可坐十餘人。百濟王欲幸 T2039_.49.0979b10: 王興寺禮佛。先於此石望拜佛。其石自煖。因 T2039_.49.0979b11: 名石 又泗泚河兩崖如畫屏。百濟王毎 T2039_.49.0979b12: 遊宴歌舞。故至今稱爲大王浦 又始祖温 T2039_.49.0979b13: 祚乃東明第三子。體洪大。性孝友。善騎射
T2039_.49.0979b16: 或云。至樂初二年己未乃崩。古爾方立
T2039_.49.0979b19: 邊。池龍文通而生。小名薯童。器量難測。常掘 T2039_.49.0979b20: 薯蕷。賣爲活業。國人因以爲名。聞新羅眞平
T2039_.49.0979b23: 誘群童而唱之云。善化公主主隱 他密只 T2039_.49.0979b24: 嫁良置古 薯童房乙夜矣卯乙抱遣去如 T2039_.49.0979b25: 童謠滿京。達於宮禁。百官極諫。竄流公主於 T2039_.49.0979b26: 遠方。將行。王后以純金一斗贈行。公主將至 T2039_.49.0979b27: 竄所。薯童出拜途中。將欲侍衞而行。公主雖 T2039_.49.0979b28: 不識其從來。偶爾信悦。因此隨行。潜通焉。然 T2039_.49.0979b29: 後知薯童名。乃信童謠之驗。同至百濟。出母 T2039_.49.0979c01: 后所贈金。將謀計活。薯童大笑曰。此何物也。 T2039_.49.0979c02: 主曰。此是黄金。可致百年之富。薯童曰。吾自 T2039_.49.0979c03: 小掘薯之地。委積如泥土。主聞大驚曰。此是 T2039_.49.0979c04: 天下至寶。君今知金之所在。則此寶輸送父 T2039_.49.0979c05: 母宮殿何如。薯童曰可。於是聚金。積如丘陵。 T2039_.49.0979c06: 詣龍華山師子寺知命法師所。問輸金之計。 T2039_.49.0979c07: 師曰。吾以神力可輸。將金來矣。主作書。并金 T2039_.49.0979c08: 置於師子前。師以神力。一夜輸置新羅宮中。 T2039_.49.0979c09: 眞平王異其神變尊敬尤甚。常馳書問安否。 T2039_.49.0979c10: 薯童由此得人心。即王位。一日王與夫人欲 T2039_.49.0979c11: 幸師子寺。至龍華山下大池邊。彌勒三尊出 T2039_.49.0979c12: 現池中。留駕致敬。夫人謂王曰。須創大伽藍 T2039_.49.0979c13: 於此地。固所願也。王許之。詣知命所。問填池 T2039_.49.0979c14: 事。以神力一夜頽山。填池爲平地。乃法像彌 T2039_.49.0979c15: 勒三會殿塔廊廡各三所創之。額曰彌勒寺
T2039_.49.0979c19: 三國史本傳云。甄萱尚州加恩縣人也。咸通 T2039_.49.0979c20: 八年丁亥生。本姓李。後以甄爲氏。父阿慈个。
T2039_.49.0979c23: 家記云。眞興大王妃思刀謚曰白夫人。第 T2039_.49.0979c24: 三子仇輪公之子波珍干善品之子角干酌珍 T2039_.49.0979c25: 妻王咬巴里生角干元善。是爲阿慈个也。慈 T2039_.49.0979c26: 之弟妻上院夫人。第二妻南院夫人。生五子 T2039_.49.0979c27: 一女。其長子是尚父萱。二子將軍能哀。三子 T2039_.49.0979c28: 將軍龍蓋。四子寶蓋。五子將軍小蓋。一女大 T2039_.49.0979c29: 主刀金。又古記云。昔一富人居光州北村。有 T2039_.49.0980a01: 一女子。姿容端正。謂父曰。毎有一紫衣男到 T2039_.49.0980a02: 寢交婚。父謂曰。汝以長絲貫針刺其衣。從之。 T2039_.49.0980a03: 至明盡絲於北牆下。針刺於大蚯蚓之腰。後 T2039_.49.0980a04: 因姙生一男。年十五。自稱甄萱。至景福元年 T2039_.49.0980a05: 壬子稱王。立都於完山郡。理四十三年。以清 T2039_.49.0980a06: 泰元年甲午。萱之三子纂逆。萱投太祖。子金 T2039_.49.0980a07: 剛即位。天福元年丙申。與高麗兵會戰於一 T2039_.49.0980a08: 善郡。百濟敗績。國王云。初萱生孺褓時。父 T2039_.49.0980a09: 耕于野。母餉之。以兒置于林下。虎來乳之。郷 T2039_.49.0980a10: 黨聞者異焉。及壯體貌雄奇。志氣倜儻不凡。 T2039_.49.0980a11: 從軍入王京。赴西南海防戌。枕戈待敵。其氣 T2039_.49.0980a12: 恒爲士卒先。以勞爲裨將。唐昭宗景福元年。 T2039_.49.0980a13: 是新羅眞聖王在位六年。嬖竪在側。竊弄國 T2039_.49.0980a14: 權。綱紀紊㢮。加之以飢饉。百姓流移。群盜蜂 T2039_.49.0980a15: 起。於是萱竊有叛心。嘯聚徒侶。行撃京西 T2039_.49.0980a16: 南州縣。所至響應。旬月之間。衆至五千。遂襲 T2039_.49.0980a17: 武珍州自王。猶不敢公然稱王。自署爲新羅 T2039_.49.0980a18: 西南都統行全州刺史兼御史中承上柱國 T2039_.49.0980a19: 漢南國開國公。龍化元年己酉也。一云景 T2039_.49.0980a20: 福元年壬子。是時北原賊良吉雄強。弓裔自 T2039_.49.0980a21: 投爲麾下。萱聞之。遥授良吉職爲裨將。萱西 T2039_.49.0980a22: 巡至完山州。州民迎勞。喜得人心。謂左右 T2039_.49.0980a23: 曰。百濟開國六百餘年。唐高宗以新羅之請。 T2039_.49.0980a24: 遣將軍蘇定方。以舡兵十三萬越海。新羅金 T2039_.49.0980a25: 庾信卷土歴黄山。與唐兵合。攻百濟滅之。予 T2039_.49.0980a26: 今敢不立都以雪宿憤乎。遂自稱後百濟王。 T2039_.49.0980a27: 設官分職。是唐光化三年。新羅孝恭王四年 T2039_.49.0980a28: 也。貞明四年戊寅。鐵原京衆心忽變。推戴我 T2039_.49.0980a29: 太祖即位。萱聞之遣使稱賀。遂獻孔雀扇地 T2039_.49.0980b01: 理山竹箭等。萱與我太祖。陽和陰剋。獻馬 T2039_.49.0980b02: 於太祖。三年冬十月。萱率三千騎至曹物城
T2039_.49.0980b05: 弟王信爲質。萱亦以外甥眞虎交質。十二月
T2039_.49.0980b08: 前都督行全州刺史海東四面都統指揮兵馬 T2039_.49.0980b09: 判置等事百濟王食邑二千五百戸。四年眞 T2039_.49.0980b10: 虎暴卒。疑故殺。即囚王信。使人請還前年所 T2039_.49.0980b11: 送馬。太祖笑還之。天成二年丁亥九月。萱
T2039_.49.0980b16: 之族弟金傅嗣位。然後虜王弟孝廉。宰相英 T2039_.49.0980b17: 景。又取國珍寶。兵仗子女。百工之巧者。自隨 T2039_.49.0980b18: 以歸。太祖以精騎五千。要萱於公山下大戰。 T2039_.49.0980b19: 太祖之將金樂崇謙死之。諸軍敗北。太祖僅 T2039_.49.0980b20: 以身免。而不與相抵。使盈其貫。萱乘勝轉掠
T2039_.49.0980b26: 卒襲破順城。城主元逢不能禦。棄城宵遁。
T2039_.49.0980b29: 萱聞之又欲入王都作惡。恐太祖先之。寄書 T2039_.49.0980c01: 于太祖曰。昨者國相金雄廉等將召足下入 T2039_.49.0980c02: 京。有同鼈應黿聲。是欲鷃披準翼。必使生靈 T2039_.49.0980c03: 塗炭宗社丘墟。僕是以先著祖鞭。獨揮韓 T2039_.49.0980c04: 鉞。誓百寮如皎日。諭六部以義風。不意姦臣 T2039_.49.0980c05: 遁逃。邦君薨變。遂奉景明王表弟獻康王之 T2039_.49.0980c06: 外孫。勸即尊位。再造危邦。喪君有君於是乎 T2039_.49.0980c07: 在。足下勿詳忠告。徒聽流言。百計窺覦。多 T2039_.49.0980c08: 方侵擾。尚不能見僕馬首。拔僕牛毛。冬初都 T2039_.49.0980c09: 頭索湘束手星山陣下。月内左將金樂曝 T2039_.49.0980c10: 骸美利寺前。殺獲居多。追禽不小。強羸若 T2039_.49.0980c11: 此。勝敗可知。所期者。掛弓於平壤之樓。飮 T2039_.49.0980c12: 馬於浿江之水。然以前月七日。呉越國使班 T2039_.49.0980c13: 尚書至。傳王詔旨。知卿與高麗。久通和好。 T2039_.49.0980c14: 共契隣盟。比因質子之兩亡。家失和親之舊 T2039_.49.0980c15: 好。互侵疆境。不戢干戈。今專發使臣。赴卿 T2039_.49.0980c16: 本道。又移文高麗。宜各相親比。永孚于休。 T2039_.49.0980c17: 僕義篤尊王。情深事大。及聞詔諭。即欲祗承。 T2039_.49.0980c18: 但虜足下欲罷不能。困而猶鬪。今録詔書寄 T2039_.49.0980c19: T2039_.49.0980c20: T2039_.49.0980c21: T2039_.49.0980c22: T2039_.49.0980c23: T2039_.49.0980c24: T2039_.49.0980c25: T2039_.49.0980c26: T2039_.49.0980c27: T2039_.49.0980c28: T2039_.49.0980c29: T2039_.49.0981a01: 呈。請留心詳悉。且免獹迭憊。終必貽譏。蚌 T2039_.49.0981a02: 𪃬相持。亦爲所笑。宜迷復之爲誡。無後悔之 T2039_.49.0981a03: 自貽。□□二年正月。太祖答曰。伏奉呉越 T2039_.49.0981a04: 國通使班尚書所傳詔旨書一道。兼蒙足 T2039_.49.0981a05: 下辱示長書叙事者。伏以華軺膚使。爰到制 T2039_.49.0981a06: 書。尺素好音。兼蒙教誨。捧芝檢而雖増感 T2039_.49.0981a07: 激。闢華牋而難遣嫌疑。今拕迴軒。輒敷危 T2039_.49.0981a08: 衽僕仰承天假。俯迫人推。過叨將帥之權。獲 T2039_.49.0981a09: 赴經綸之會。頃以三韓厄會。九土凶荒。黔黎 T2039_.49.0981a10: 多屬於黄巾。田野無非其赤土。庶幾弭風塵 T2039_.49.0981a11: 之警。有以救邦國之災。爰自善隣。於爲結好 T2039_.49.0981a12: 果見數千里農桑樂業。七八年士卒閑眠。及 T2039_.49.0981a13: 至癸酉年。維時陽月。忽焉生事。至乃交兵 T2039_.49.0981a14: 足下始輕敵以直前。若螳蜋之拒轍。終知難 T2039_.49.0981a15: 而勇退。如蚊子之負山。拱手陳辭。指天作誓。 T2039_.49.0981a16: 今日之後。永世歡和。苟或渝盟神其殛矣。僕 T2039_.49.0981a17: 爾尚止戈之正。期不殺之仁。遂解重圍以休 T2039_.49.0981a18: 疲卒。不辭質子但欲安民。此即我有大徳於 T2039_.49.0981a19: 南人也。豈期歃血未乾。凶威復作。蜂蠆之 T2039_.49.0981a20: 毒侵害於生民。狼虎之狂爲梗於畿甸。金城 T2039_.49.0981a21: 窘忽。黄屋震驚。仗義尊周。誰似桓文之覇。 T2039_.49.0981a22: 乘間謀漢。唯看莽卓之姦。致使王之至尊。枉 T2039_.49.0981a23: 稱子於足下。尊卑失序。上下同憂。以爲非有 T2039_.49.0981a24: 元輔之忠純。豈得再安社稷。以僕心無匿惡。 T2039_.49.0981a25: 志切尊王。將援置於朝廷。使扶危於邦國。足 T2039_.49.0981a26: 下見毫釐之小利。忘天地之厚恩。斬戮君主 T2039_.49.0981a27: 焚燒宮闕。卿佐。虔劉士民。姫姜則取以 T2039_.49.0981a28: 同車。珍寶則奪之相載。元惡浮於桀紂。不 T2039_.49.0981a29: 仁甚於獍梟僕惡極崩天。誠深却日。約効 T2039_.49.0981b01: 鷹鸇之逐。以申犬馬之□再擧干戈。兩更槐 T2039_.49.0981b02: 柳。陸墼則雷馳電激。水攻則虎搏龍騰。動必 T2039_.49.0981b03: 成功。擧無虚發。逐尹卿於海岸。積甲如山。禽 T2039_.49.0981b04: 雛造於城邊。伏屍蔽野。燕山郡畔。斬吉奐
T2039_.49.0981b09: 來羅府則自西移屬。侵攻若此。收復寧遥必 T2039_.49.0981b10: 期泜水營中。靈張耳千般之恨。烏江岸上 T2039_.49.0981b11: 成漢王一揵之心竟息風波。永清寰海。天之 T2039_.49.0981b12: 所助。命欲何歸。況承呉越王殿下。徳洽包 T2039_.49.0981b13: 荒。仁深字小。特出綸於舟禁。諭戢難於青 T2039_.49.0981b14: 丘。既奉訓謀。敢不尊奉。若足下祗承睿旨。 T2039_.49.0981b15: 悉戢凶機。不唯副上國之仁恩。抑可紹東 T2039_.49.0981b16: 海之絶緒。若不過而能改。其如悔不可追。
T2039_.49.0981b19: 秋九月。萱遣一吉。以舡兵入高麗禮城江。留
T2039_.49.0981b23: 之。斬獲三千餘級。熊津以北三十餘城。聞風 T2039_.49.0981b24: 自降。萱麾下術士宗訓醫者之謙勇將尚 T2039_.49.0981b25: 逢雀弼等降於太祖。丙申正月。萱胃子曰。 T2039_.49.0981b26: 老夫新羅之季。立後百濟名有年于今矣。兵 T2039_.49.0981b27: 倍於北軍。尚爾不利。殆天假手爲高麗。蓋 T2039_.49.0981b28: 歸順於北王。保首領矣。其子神劍龍劍良劍 T2039_.49.0981b29: 等三人皆不應。李磾家記云。萱有九子。長曰
T2039_.49.0981c03: 佐承位興。八子大師青丘。一女國大夫人。皆 T2039_.49.0981c04: 上院夫人所生也。萱多妻妾。有子十餘人。第 T2039_.49.0981c05: 四子金剛。身長而多智。萱特愛之。意欲傳位。 T2039_.49.0981c06: 其兄神劍良劍龍劍知之憂㦖。時良劍爲康 T2039_.49.0981c07: 州都督。龍劍爲武州都督。獨神劍在側。伊 T2039_.49.0981c08: 飱能奐使人往康武二州。與良劍等謀。至清 T2039_.49.0981c09: 泰二年乙未春三月。與英順等勸神劍。幽萱 T2039_.49.0981c10: 於金山佛宇。遣人殺金剛。神劍自稱大王。赦
T2039_.49.0981c13: 神劍攝父王位。而諸將歡賀聲也。俄移父於 T2039_.49.0981c14: 金山佛宇。以巴達等壯士三十人守之。童謠 T2039_.49.0981c15: 曰。可憐完山兒。失父涕連洒。萱與後宮年少 T2039_.49.0981c16: 男女二人侍婢古比女内人能又男等囚繋。 T2039_.49.0981c17: 至四月。釀酒而飮醉守卒三十人。而與小元 T2039_.49.0981c18: 甫香文呉琰忠質等以海路迎之。既至。以萱 T2039_.49.0981c19: 爲十年之長。尊號爲尚父。安置于南宮。賜楊 T2039_.49.0981c20: 州食邑田莊。奴婢四十口。馬九匹。以其國先 T2039_.49.0981c21: T2039_.49.0981c22: T2039_.49.0981c23: T2039_.49.0981c24: T2039_.49.0981c25: T2039_.49.0981c26: T2039_.49.0981c27: T2039_.49.0981c28: T2039_.49.0981c29: T2039_.49.0982a01: 來降者信康爲衙前。甄萱婿將軍英規密語 T2039_.49.0982a02: 其妻曰。大王勤勞四十餘年。功業垂成。一旦 T2039_.49.0982a03: 以家人之禍失地。從於高麗。夫貞女不可 T2039_.49.0982a04: 二夫。忠臣不事二主。若捨已君。以事逆子 T2039_.49.0982a05: 耶。何顏以見天下之義士乎。況聞高麗王公 T2039_.49.0982a06: 仁厚懃儉。以得民心。殆天啓也。必爲三韓之 T2039_.49.0982a07: 主。盍致書以安慰我王。兼慇懃於王公。以圖 T2039_.49.0982a08: 後來之福乎。妻曰。子之言是吾意也。於是 T2039_.49.0982a09: 天福元年丙申二月。遣人致意於太祖曰。君 T2039_.49.0982a10: 擧義旗。請爲内應以迎王師。太祖喜。厚賜其 T2039_.49.0982a11: 使者遣之。謝英規曰。若蒙恩一合。無道路之 T2039_.49.0982a12: 梗。即先致謁於將軍。然後升堂拜夫人。兄事 T2039_.49.0982a13: 而姉尊之。必終有以厚報之。天下鬼神皆聞 T2039_.49.0982a14: 此語。六月。萱告太祖。老臣所以投身於殿下 T2039_.49.0982a15: 者。願仗殿下威稜。以誅逆子耳。伏望大王借 T2039_.49.0982a16: 以神兵。殲其賊亂。臣雖死無憾。太祖曰。非 T2039_.49.0982a17: 不欲討之。待其時也。先遣太子及正將軍述 T2039_.49.0982a18: 希領歩騎十萬。趣天安府。秋九月。太祖率 T2039_.49.0982a19: 三軍至天安。合兵進次一善。神劍以兵逆之 T2039_.49.0982a20: 甲午。隔一利川相對。王師背艮向坤而陳。 T2039_.49.0982a21: 太祖與萱觀兵。忽白雲状如劍戟起。我師向 T2039_.49.0982a22: 彼行焉。乃鼓行而進。百濟將軍孝奉徳述哀 T2039_.49.0982a23: 述明吉等。望兵勢大而整。棄甲降於陣前。太 T2039_.49.0982a24: 祖勞慰之。問將帥所在。孝奉等曰。元帥神 T2039_.49.0982a25: 劍在中軍。太祖命將軍公萱等。三軍齊進挾 T2039_.49.0982a26: 撃。百濟軍潰北至黄山炭峴。神劍與二弟將 T2039_.49.0982a27: 軍富達能奐等四十餘人生降。太祖受降。餘 T2039_.49.0982a28: 皆勞之。許令與妻子上京。問能奐曰。始與良 T2039_.49.0982a29: 劍等密謀囚大王立其子者。汝之謀也。爲臣 T2039_.49.0982b01: 之義。當如是乎。能奐俛首不能言。遂命誅之。 T2039_.49.0982b02: 以神劍僣位爲人所脅。非其本心。又且歸命 T2039_.49.0982b03: 乞罪。特原其死。甄萱憂懣發疽。數日卒於黄 T2039_.49.0982b04: 山佛舍。九月八日也。壽七十。太祖軍令嚴明。 T2039_.49.0982b05: 士卒不犯秋毫。州縣安堵。老幼皆呼萬歳。謂 T2039_.49.0982b06: 英規曰。前王失國後。其臣子無一人慰之 T2039_.49.0982b07: 者。獨卿夫妻千里嗣音。以致誠意。兼歸美於 T2039_.49.0982b08: 寡人。其義不可忘。許職左承。賜田一千頃。許 T2039_.49.0982b09: 借驛馬三十五匹以迎家人。賜其二子以官。 T2039_.49.0982b10: 甄萱起唐景福元年。至晋天福元年。共四 T2039_.49.0982b11: 十五年。丙申滅 史論曰。新羅數窮道喪。天 T2039_.49.0982b12: 無所助。民無所歸。於是群盜投隙而作。若猬 T2039_.49.0982b13: 毛然。其劇者弓裔甄萱二人而已。弓裔本新 T2039_.49.0982b14: 羅王子而反。以家國爲讎至斬先祖之畫像。 T2039_.49.0982b15: 其爲不仁甚矣。甄萱起自新羅之民。至新羅 T2039_.49.0982b16: 之祿。包藏禍心。幸國之危。侵軼都邑。虔劉 T2039_.49.0982b17: 君臣若禽獸。實天下之元惡。故弓裔見棄 T2039_.49.0982b18: 於其臣。甄萱産禍於其子。皆自取之也。又誰 T2039_.49.0982b19: 咎也。雖項羽李密之雄才。不能敵漢唐之興。 T2039_.49.0982b20: 而況裔萱之凶人。豈可與我太祖相抗歟
T2039_.49.0982b23: 稱。越有我刀干。汝刀干。彼刀干。五刀干。留 T2039_.49.0982b24: 水干。留天干。神天干。五天干。神鬼干等九干 T2039_.49.0982b25: 者。是酋長領總百姓凡一百戸。七萬五千 T2039_.49.0982b26: 人。多以自都山野。鑿井而飮耕田而食。屬後 T2039_.49.0982b27: 漢世祖光武帝建武十八年壬寅三月禊洛之
T2039_.49.0982c01: 其形而發其音曰。此有人否。九干等云。吾徒 T2039_.49.0982c02: 在。又曰。吾所在爲何。對云龜旨也。又曰。皇 T2039_.49.0982c03: 天所以命我者。御是處。惟新家邦。爲君后。爲 T2039_.49.0982c04: 茲故降矣。爾等須掘峯頂撮士歌之云。龜何 T2039_.49.0982c05: 龜何。首其現也。若不現也。燔灼而喫也。以之 T2039_.49.0982c06: 蹈舞。則是迎大王。歡喜踴躍之也。九干等如 T2039_.49.0982c07: 其言。咸忻而歌舞。未幾仰而觀之。唯紫繩自 T2039_.49.0982c08: 天垂而著地。尋繩之下。乃見紅幅裹金合子。 T2039_.49.0982c09: 開而視之。有黄金卵六圓如日者。衆人悉皆 T2039_.49.0982c10: 驚喜。倶伸百拜。尋還。裹著抱持而歸我刀家 T2039_.49.0982c11: 窴榻上。其衆各散。過浹辰。翌日平明衆庶復 T2039_.49.0982c12: 相聚集開合。而六卵化爲童子。容貌甚偉。仍 T2039_.49.0982c13: 坐於床。衆庶拜賀。盡恭敬止。日日而大。踰十 T2039_.49.0982c14: 餘晨昏。身長九尺則殷之天乙。顏如龍焉則 T2039_.49.0982c15: 漢之高祖。眉之八彩則有唐之高。眼之重瞳 T2039_.49.0982c16: 則有虞之舜。其於月望日即位也。始現故諱
T2039_.49.0982c19: 耶主。東以黄山江。西南以海。西北以地理 T2039_.49.0982c20: 山。東北以伽耶山南而爲國尾。俾創假宮而 T2039_.49.0982c21: 入御。但要質儉。茅茨不剪。土階三尺。二年癸 T2039_.49.0982c22: 卯春正月。王若曰。朕欲定置京都。仍駕幸假
T2039_.49.0982c25: 六羅漢住地。何況自一成三。自三成七。七聖 T2039_.49.0982c26: 住地。固合于是。托土開疆。終然允臧歟。築置 T2039_.49.0982c27: 一千五百歩周迴羅城。宮禁殿宇。及諸有司 T2039_.49.0982c28: 屋宇。虎庫倉廩之地。事訖還宮。遍徴國内丁 T2039_.49.0982c29: 壯人夫工匠。以其月二十日資始金陽。曁三 T2039_.49.0983a01: 月十日役畢。其宮闕屋舍。候農隙而作之。經 T2039_.49.0983a02: 始于厥年十月。逮甲辰二月而成。涓吉辰御 T2039_.49.0983a03: 新宮。理萬機而懃庶務。忽有琓夏國含達王 T2039_.49.0983a04: 之夫人妊娠。彌月生卵。卵化爲人。名曰脱解。 T2039_.49.0983a05: 從海而來。身長三尺。頭圓一尺。悦焉詣闕。語 T2039_.49.0983a06: 於王云。我欲奪王之位。故來耳。王答曰。天命 T2039_.49.0983a07: 我俾即于位。將令安中國而綏下民。不敢違 T2039_.49.0983a08: 天之命。以與之位。又不敢以吾國吾民。付囑 T2039_.49.0983a09: 於汝。解云。若爾可爭其術。王曰可也。俄頃之 T2039_.49.0983a10: 間。解化爲鷹。王化爲鷲。又解化爲雀。王化爲 T2039_.49.0983a11: 鸇。于此際也。寸陰未移。解还本身。王亦復 T2039_.49.0983a12: 然。解乃伏膺曰。僕也適於角術之場。鷹之 T2039_.49.0983a13: 鷲。雀之於鸇。獲免焉。此蓋聖人惡殺之仁而 T2039_.49.0983a14: 然乎。僕之與王。爭位良難。便拜辭而出。到麟 T2039_.49.0983a15: 郊外渡頭。將中朝來泊之木道而行。王竊恐 T2039_.49.0983a16: 滯留謀亂。急發舟師五百艘而追之。解奔入 T2039_.49.0983a17: 雞林地界。舟師盡還。事記所載多異與新羅。 T2039_.49.0983a18: 屬建武二十四年戊申七月二十七日。九干 T2039_.49.0983a19: 等朝謁之次獻言曰。大王降靈已來。好仇未 T2039_.49.0983a20: 得。請臣等所有處女絶好者。選入宮闈。俾爲 T2039_.49.0983a21: 伉儷王曰。朕降于茲天命也。配朕而作后。亦 T2039_.49.0983a22: 天之命。卿等無慮。遂命留天干押輕舟。持駿
T2039_.49.0983a26: 陸。爭奔而來。神鬼望之。走入闕奏之。上聞 T2039_.49.0983a27: 欣欣。尋遣九干等。整蘭橈。揚桂楫而迎之。旋 T2039_.49.0983a28: 欲陪入内。王后乃曰。我與等素昧平生焉。 T2039_.49.0983a29: 敢輕忽相隨而去。留天等返達后之語。王然 T2039_.49.0983b01: 之。率有司動蹕。從闕下西南六十歩許地。山 T2039_.49.0983b02: 邊設幔殿祗候。王后於山外別浦津頭。維舟 T2039_.49.0983b03: 登陸。憩於高嶠。解所著綾袴爲贄。遺于山靈 T2039_.49.0983b04: 也。其地侍從媵臣二員。名曰申輔趙匡。其 T2039_.49.0983b05: 妻二人。號慕貞慕良。或臧獲并計二十餘口。 T2039_.49.0983b06: 所齎錦繍綾羅。衣裳疋段。金銀珠玉。瓊 T2039_.49.0983b07: 服玩器。不可勝記。王后漸近行在。上出迎之。 T2039_.49.0983b08: 同入帷宮。媵臣已下衆人。就階下而見之即 T2039_.49.0983b09: 退。上命有司。引媵臣夫妻曰。人各以一房安 T2039_.49.0983b10: 置。已下臧獲各一房五六人安置。給之以蘭 T2039_.49.0983b11: 液蕙醑。寢之以文茵彩薦。至於衣服疋段寶 T2039_.49.0983b12: 貨之類。多以軍夫集而護之。於是王與后 T2039_.49.0983b13: 共在御國寢。從容語王曰。妾是阿踰陀國公 T2039_.49.0983b14: 主也。姓許名黄玉。年二八矣。在本國時。今年 T2039_.49.0983b15: 五月中。父王與皇后顧妾而語曰。爺孃一昨 T2039_.49.0983b16: 夢中。同見皇天上帝。謂曰。駕洛國元君首露 T2039_.49.0983b17: 者。天所降而俾御大寶。乃神乃聖。惟其人 T2039_.49.0983b18: 乎。且以新花家邦。未定匹偶。卿等須遣公 T2039_.49.0983b19: 主而配之。言訖升天。形開之後。上帝之言。其 T2039_.49.0983b20: 猶在耳。儞於此而忽辭親向彼乎。往矣。妾也 T2039_.49.0983b21: 浮海遐尋於蒸。移天夐赴於蟠桃。螓首敢 T2039_.49.0983b22: 叨龍顏是近。王答曰。朕生而頗聖。先知公主 T2039_.49.0983b23: 自遠而屆。下臣有納妃之請。不敢從焉。今也 T2039_.49.0983b24: 淑質自臻。眇躬多幸。遂以合歡。兩過清宵。一 T2039_.49.0983b25: 經白晝。於是遂還來船。篙工楫師共十有五 T2039_.49.0983b26: 人。各賜糧粳米十碩。布三十疋。令歸本國。八 T2039_.49.0983b27: 月一日迴鑾。與后同輦。媵臣夫妻齊鏕並駕。 T2039_.49.0983b28: 其漢肆雜物。感使乘載。徐徐入闕。時銅壷欲 T2039_.49.0983b29: 午。王后爰處中宮。勅賜媵臣夫妻。私屬。空 T2039_.49.0983c01: 閑二室分入。餘外從者以賓館。一坐二十餘 T2039_.49.0983c02: 間。酌定人數。區別安置。日給豐羨。其所載珍 T2039_.49.0983c03: 物。藏於内庫。以爲王后四時之費。一日上語 T2039_.49.0983c04: 臣下曰。九干等倶爲庶僚之長。其位與名。皆 T2039_.49.0983c05: 是宵人野夫之號。頓非簪履職位之稱。儻化 T2039_.49.0983c06: 外傳聞。必有嗤笑之恥。遂改我刀爲我躬。汝 T2039_.49.0983c07: 刀爲汝諧。彼刀爲彼藏。五方爲五常。留水 T2039_.49.0983c08: 留天之名。不動上字。改下字留功留徳。改 T2039_.49.0983c09: 爲神道。五天改爲五能。神鬼之音不易。改訓 T2039_.49.0983c10: 爲臣貴。取雞林職儀。置角干阿叱干級干之 T2039_.49.0983c11: 秩。其下官僚。以周判漢儀而分定之。斯所以 T2039_.49.0983c12: 革古鼎新設官分職之道歟。於是乎理國齊 T2039_.49.0983c13: 家。愛民如子。其教不肅而威。其政不嚴而理。 T2039_.49.0983c14: 況與王后而居也。比如天之有地。日之有月。 T2039_.49.0983c15: 陽之有陰。其功也塗山翼夏。唐煖興嬌。頻年 T2039_.49.0983c16: 有夢得熊羆之兆。誕生太子居登公。靈帝中 T2039_.49.0983c17: 平六年己巳三月一日后崩。壽一百五十七。 T2039_.49.0983c18: 國人如嘆坤崩。葬於龜旨東北塢。遂欲忘子 T2039_.49.0983c19: 愛下民之惠。因號初來下纜渡頭村曰主浦 T2039_.49.0983c20: 村。解綾袴高岡曰綾峴。茜旗行入海涯曰旗 T2039_.49.0983c21: 出邊。媵臣泉府卿申輔宗正監趙匡等到國 T2039_.49.0983c22: 三十年。後各産二女焉。夫與婦踰一二年而 T2039_.49.0983c23: 皆信也。其餘臧獲之輩。自來七八年間。 T2039_.49.0983c24: 未有茲子生。唯抱懷土之悲。皆首丘而沒。所 T2039_.49.0983c25: 舍賓館。圓其無人。元君乃毎歌鰥枕。悲嘆良 T2039_.49.0983c26: 多。隔二五歳。以獻帝立安四年己卯三月二 T2039_.49.0983c27: 十三日而殂落。壽一百五十八歳矣。國中之 T2039_.49.0983c28: 人若亡天。只悲慟甚於后崩之日。遂於闕之 T2039_.49.0983c29: 艮方平地。造立殯宮。高一丈。周三百歩而葬 T2039_.49.0984a01: 之。號首陵王廟也。自嗣子居登王洎九代孫 T2039_.49.0984a02: 仇衝之享是廟。須以毎歳孟春三之日。七之 T2039_.49.0984a03: 日。仲夏重五之日。仲秋初五之日。十五之 T2039_.49.0984a04: 日。豐潔之奠。相繼不絶。洎新羅第三十王法 T2039_.49.0984a05: 敏龍朔元年辛酉三月日。有制曰。朕是伽耶 T2039_.49.0984a06: 國元君九代孫仇衝王之降于當國也。所率 T2039_.49.0984a07: 來子世宗之子率友公之子庶云匝干之女 T2039_.49.0984a08: 文明皇后寔生我者。茲故元君於幼冲人。乃 T2039_.49.0984a09: 爲十五代始祖也。所御國者已曾敗。所葬廟 T2039_.49.0984a10: 者今尚存。合于宗祧。續乃祀事。仍遣使於黍 T2039_.49.0984a11: 離之趾。□近廟上上田三十頃。爲供營之 T2039_.49.0984a12: 資。號稱王位田。付屬本土。王之十七代孫賡 T2039_.49.0984a13: 世級干祇禀朝旨。主掌厥田。毎歳時釀醪醴。 T2039_.49.0984a14: 設以餅飯茶菓庶羞等奠。年年不墜。其祭日 T2039_.49.0984a15: 不失居登王之所定年内五日也。芬苾孝祀。 T2039_.49.0984a16: 於是乎在於我。自居登王即位己卯年置便 T2039_.49.0984a17: 房。降及仇衝朝。來三百三十載之中。享廟 T2039_.49.0984a18: 禮曲。永無違者。其乃仇衝失位去國。逮龍朔 T2039_.49.0984a19: 元年辛酉。六十年之間。享是廟禮。或闕如也。
T2039_.49.0984a22: 干者。攻取金官高城。而爲城主將軍。爰有英 T2039_.49.0984a23: 規阿干。假威於將軍。奪廟享而淫祀。當端午 T2039_.49.0984a24: 而致告。祠堂梁無故折墜。因覆壓而死焉。於 T2039_.49.0984a25: 是將軍自謂。宿因多幸。辱爲聖王所御。國城 T2039_.49.0984a26: 之奠。宜我畫其眞影。香燈供之。以酬玄恩。遂 T2039_.49.0984a27: 以鮫絹三尺摸出眞影。安於壁上。旦夕膏炷。 T2039_.49.0984a28: 瞻仰虔至。才三日。影之二目流下血涙。而貯 T2039_.49.0984a29: 於地上。幾一斗矣。將軍大懼。捧持其眞。就廟 T2039_.49.0984b01: 而焚之。即召王之眞孫圭林而謂曰。昨有不 T2039_.49.0984b02: 祥事。一何重疊。是必廟之威靈。震怒余之圖 T2039_.49.0984b03: 畫而供養不孫。英規既死。余甚怪畏。影已燒 T2039_.49.0984b04: 矣。必受陰誅。卿是王之眞孫。信合依舊以 T2039_.49.0984b05: 祭之。圭林繼世奠酻。年及八十八歳而卒。其 T2039_.49.0984b06: 子間元卿。續而克禋。端午日謁廟之祭。英規 T2039_.49.0984b07: 之子俊必又發狂。來詣廟。俾徹間元之奠。以 T2039_.49.0984b08: 已奠陳享。三獻未終。得暴疾歸家而斃。然古 T2039_.49.0984b09: 人有言。淫祀無福。反受其殃。前有英規。後有 T2039_.49.0984b10: 佼必。父子之謂乎。又有賊徒。謂廟中多有金 T2039_.49.0984b11: 玉。將來盜焉。初之來也。有躬擐甲冑。張弓挾 T2039_.49.0984b12: 矢。猛士一人。從廟中出。四面雨射。中殺七八 T2039_.49.0984b13: 人。賊徒奔走。數日再來。有大蟒長三十餘尺。 T2039_.49.0984b14: 眼光如電。自廟旁出。咬殺八九人。粗得完免 T2039_.49.0984b15: 者。皆僵仆而散。故知陵園表裏。必有神物護 T2039_.49.0984b16: 之。自建安四年己卯始造。逮今上御圖三十 T2039_.49.0984b17: 一載大康二年丙辰。凡八百七十八年。所封 T2039_.49.0984b18: 美土。不騫不崩。所植佳木。不枯不朽。況所 T2039_.49.0984b19: 排列万蘊玉之片片。亦不頽坼。由是觀之。辛 T2039_.49.0984b20: 替否曰。自古迄今。豈有不亡之國。不破之 T2039_.49.0984b21: 墳。唯此駕洛國之昔曾亡。則替否之言有徴 T2039_.49.0984b22: 矣。首露廟之不毀。則替否之言未足信也。此 T2039_.49.0984b23: 中更有戲樂思慕之事。毎以七月二十九日。 T2039_.49.0984b24: 土人吏卒。陟乘岵。設帷幕。酒食歡呼。而東西 T2039_.49.0984b25: 送目。壯健人夫。分類以左右之。自望山島。駁 T2039_.49.0984b26: 蹄駸駸。而競湊於陸。鷁首泛泛。而相推於水。 T2039_.49.0984b27: 北指古浦而爭趨。蓋此昔留天神鬼等望后 T2039_.49.0984b28: 之來。急促告君之遺迹也。國亡之後。代代稱 T2039_.49.0984b29: 號不一。新羅第三十一政明王即位開耀元 T2039_.49.0984c01: 年辛巳。號爲金官京。置太守。後二百五十九 T2039_.49.0984c02: 年屬我太祖統合之後。代代爲臨海縣。置排 T2039_.49.0984c03: 岸使。四十八年也。次爲臨海郡。或爲金海府。 T2039_.49.0984c04: 置都護府。二十七年也。又置防禦使。六十四 T2039_.49.0984c05: 年也。淳化二年金海府量田使中大夫趙文 T2039_.49.0984c06: 善申省状。稱首露陵王廟屬田結數多也。宜 T2039_.49.0984c07: 以十五結仍舊貫。其餘分折於府之役丁。所 T2039_.49.0984c08: 司傳状奏聞。時廟朝宣旨曰。天所降卵。化爲 T2039_.49.0984c09: 聖君。居位而延齡。則一百五十八年也。自彼 T2039_.49.0984c10: 三皇而下。鮮克比肩者歟。崩後自先代俾屬 T2039_.49.0984c11: 廟之壟畝。而今減除。良堪疑懼。而不允。使又 T2039_.49.0984c12: 申省。朝廷然之。半不動於陵廟中。半分給於
T2039_.49.0984c15: 畢。而甚勞倦。忽一夕夢見七八介鬼神。執縲 T2039_.49.0984c16: 紲。握刀劍而至。云儞有大憝。故加斬戮。其使 T2039_.49.0984c17: 以謂受刑而慟楚。驚懼而覺。仍有疾瘵。勿令 T2039_.49.0984c18: 人知之。宵遁而行。其病不問渡關而死。是故 T2039_.49.0984c19: 量田都帳不著印也。後人奉使來。審檢厥田。 T2039_.49.0984c20: 才一結十二負九束也。不足者三結八十七 T2039_.49.0984c21: 負一束矣。乃推鞠斜入處。報告内外官。勅 T2039_.49.0984c22: 理足支給焉。又有古今所嘆息者。元君八 T2039_.49.0984c23: 代孫金銍王。克勤爲政。又切崇眞。爲世祖母 T2039_.49.0984c24: 許皇后奉資冥福。以元嘉二十九年壬辰。於 T2039_.49.0984c25: 元君與皇后合婚之地創寺。額曰王后寺。遣 T2039_.49.0984c26: 使審量近側平田十結。以爲供億三寶之費。 T2039_.49.0984c27: 自有是寺五百後。置長遊寺所納田柴并三 T2039_.49.0984c28: 百結。於是右寺三剛。以王后寺在寺柴地東 T2039_.49.0984c29: 南標内。罷寺爲莊。作秋收冬藏之場。秣馬養 T2039_.49.0985a01: 牛之廐。悲夫。世祖已下九代孫暦數。委録于 T2039_.49.0985a02: 下。銘曰 T2039_.49.0985a03: 元胎肇啓 利眼初明 人倫雖誕 T2039_.49.0985a04: 君位未成 中朝累世 東國分京 T2039_.49.0985a05: 雞林先定 駕洛後營 自無銓宰 T2039_.49.0985a06: 誰察民氓 遂茲玄造 顧彼蒼生 T2039_.49.0985a07: 用授符命 特遣精靈 山中降卵 T2039_.49.0985a08: 霧裏藏刑 内猶漠漠 外亦冥冥 T2039_.49.0985a09: 望如無象 聞乃有聲 群歌而奏 T2039_.49.0985a10: 衆舞而呈 七日而後 一時所丁 T2039_.49.0985a11: 風吹雲卷 空碧天青 下六圓卵 T2039_.49.0985a12: 垂一紫纓 殊方異土 比屋連薨 T2039_.49.0985a13: 觀者如堵 覩者如羹 五歸各邑 T2039_.49.0985a14: 一在茲城 同時同迹 如弟如兄 T2039_.49.0985a15: 實天生徳 爲世作程 寶位初陟 T2039_.49.0985a16: 寰區欲清 華構徴古 土階尚平 T2039_.49.0985a17: 萬機始勉 庶政施行 無偏無儻 T2039_.49.0985a18: 惟一惟精 行者讓路 農者讓耕 T2039_.49.0985a19: 四方奠枕 萬姓衡 俄晞薤露 T2039_.49.0985a20: 靡保椿 乾坤變氣 朝野痛情 T2039_.49.0985a21: 金相其躅 玉振其聲 來苗不絶 T2039_.49.0985a22: 薦藻惟馨 日月雖逝 規儀不傾 T2039_.49.0985a23: 居登王 T2039_.49.0985a24: 父首露王。母許王后。立安四年己卯三月 T2039_.49.0985a25: □十三日即位。治三十九年。嘉平五年 T2039_.49.0985a26: 癸酉九月十七日崩。王妃泉府卿申輔女 T2039_.49.0985a27: 慕貞。生太子麻品。開皇暦云。姓金氏。蓋國 T2039_.49.0985a28: 世祖從金卵而生。故以金爲姓爾 T2039_.49.0985a29: 麻品王 T2039_.49.0985b01: 一云馬品。金氏。嘉平五年癸酉即位。治三 T2039_.49.0985b02: 十九年。永平元年辛亥一月二十九日崩。 T2039_.49.0985b03: 王妃宗正監趙匡孫女好仇。生太子居叱 T2039_.49.0985b04: 彌 T2039_.49.0985b05: 居叱彌王 T2039_.49.0985b06: 一云今勿。金氏。永平元年即位。治五十六 T2039_.49.0985b07: 年。永和二年丙午七月八日崩。王妃阿躬 T2039_.49.0985b08: 阿干孫女阿志。生王子伊品 T2039_.49.0985b09: 伊尸品王 T2039_.49.0985b10: 金氏。永和二年即位。治六十二年。義煕三 T2039_.49.0985b11: 年丁未四月十日崩。王妃司農卿克忠女 T2039_.49.0985b12: 貞信。生王子坐知 T2039_.49.0985b13: 坐知王 T2039_.49.0985b14: 一云金叱。義煕三年即位。娶傭女。以女黨 T2039_.49.0985b15: 爲官。國内擾亂。雞林國以謀欲伐。有一臣 T2039_.49.0985b16: 名朴元道。諫曰。遺草閲閲亦含羽。況乃人 T2039_.49.0985b17: 乎。天亡地陷。人保何基。又卜士筮得解卦。 T2039_.49.0985b18: 其辭曰。解而悔。朋至斯孚。君鑒易卦乎。 T2039_.49.0985b19: 王謝曰。可擯傭女。貶於荷山島。改行其政。 T2039_.49.0985b20: 長御安民也。治十五年。永初二年辛酉五 T2039_.49.0985b21: 月十二日崩。王妃道寧大阿干女福壽。生 T2039_.49.0985b22: 子吹希 T2039_.49.0985b23: 吹希王 T2039_.49.0985b24: 一云叱嘉。金氏。永初二年即位。治三十一 T2039_.49.0985b25: 年。元嘉二十八年辛卯二月三日崩。王妃 T2039_.49.0985b26: 進思角干女仁徳。生王子銍知 T2039_.49.0985b27: 銍知王 T2039_.49.0985b28: 一云金銍王。元嘉二十八年即位。明年爲 T2039_.49.0985b29: 世祖許黄玉王后。奉資冥福於初與世祖 T2039_.49.0985c01: 合御之地。創寺曰王后寺。納田十結充之。 T2039_.49.0985c02: 治四十二年。永明十年壬申十月四日崩。 T2039_.49.0985c03: 王妃金相沙干女邦媛。生王子鉗知 T2039_.49.0985c04: 鉗知王 T2039_.49.0985c05: 一云。金鉗王。永明十年即位。治三十年。正 T2039_.49.0985c06: 光二年辛丑四月七日崩。王妃出忠角干 T2039_.49.0985c07: 女淑。生王子仇衡 T2039_.49.0985c08: 仇*衡王 T2039_.49.0985c09: 金氏。正光二年即位。治四十二年。保定二 T2039_.49.0985c10: 年壬午九月。新羅第二十四君眞興王。興 T2039_.49.0985c11: 兵薄伐。王使親軍卒。彼衆我寡。不堪對 T2039_.49.0985c12: 戰也。仍遣同氣脱知爾叱今留在於國。王 T2039_.49.0985c13: 子上孫卒支公等降入新羅。王妃分叱水 T2039_.49.0985c14: 爾叱女桂花。生三子。一世宗角干。二茂 T2039_.49.0985c15: 刀角干。三茂得角干。開皇録云。梁中大通 T2039_.49.0985c16: 四年壬子降于新羅 T2039_.49.0985c17: 議曰。案三國史。仇*衡以梁中大通四年壬 T2039_.49.0985c18: 子納土投羅。則計自首露初即位東漢建 T2039_.49.0985c19: 武十八年壬寅。至仇*衡末壬子。得四百九 T2039_.49.0985c20: 十年矣。若以此記考之。納土在元魏保定 T2039_.49.0985c21: 二年壬午。則更三十年。總五百二十年矣。 T2039_.49.0985c22: 今兩存之 T2039_.49.0985c23: 三國遺事卷第二 T2039_.49.0985c24: T2039_.49.0985c25: T2039_.49.0985c26: T2039_.49.0985c27: T2039_.49.0985c28: T2039_.49.0985c29: T2039_.49.0986a01: T2039_.49.0986a02: T2039_.49.0986a03: T2039_.49.0986a04: 興法第三
T2039_.49.0986a08: 晋咸安二年孝武帝即位之年也。前秦符堅
T2039_.49.0986a11: 以置順道。又創伊弗蘭寺以置阿道。此高麗 T2039_.49.0986a12: 佛法之始。僧傳作二道來自魏云者誤矣。 T2039_.49.0986a13: 實自前秦而來。又云肖門寺今興國。伊弗蘭 T2039_.49.0986a14: 寺今興福者亦誤。按麗時都安市城。一名安 T2039_.49.0986a15: 丁忽。在遼水之北遼水一名鴨淥。今云安民 T2039_.49.0986a16: 江。豈有松京之興國寺名。讃曰 T2039_.49.0986a17: 鴨淥春深渚草鮮 白沙鴎鷺等閑眠 T2039_.49.0986a18: 忽驚柔櫓一聲遠 何處漁舟客到烟 T2039_.49.0986a19: 難陀闢濟
T2039_.49.0986a23: 人。此百濟佛法之始。又阿莘王即位大元十 T2039_.49.0986a24: 七年二月。下教崇信佛法求福。摩羅難陀。譯
T2039_.49.0986a27: 翁翁自解呈歌舞 引得傍人借眼看
T2039_.49.0986b05: 也。焚之則香氣芬馥。所以達誠於神聖。神聖
T2039_.49.0986b09: 所歸。又至二十一毘處王時。有我道和尚。與 T2039_.49.0986b10: 侍者三人。亦來毛禮家。儀表似墨胡子。住數 T2039_.49.0986b11: 年。無疾而終。其侍者三人留住。講讀經律。往
T2039_.49.0986b16: 省覲崛摩。投玄彰和尚講下就業。年十九又 T2039_.49.0986b17: 歸寧於母。母謂曰。此國于今不知佛法。爾後 T2039_.49.0986b18: 三千餘月雞林有聖王出。大興佛教。其京都
T2039_.49.0986b26: 祀矣。道禀教至雞林。寓止王城西里。今嚴莊 T2039_.49.0986b27: 寺。于時末雛王即位二年癸未也。詣闕請行 T2039_.49.0986b28: 教法。世以前所未見爲嫌。至有將殺之者。乃
T2039_.49.0986c03: 赴闕。其疾遂理。王大悦。問其所須。對曰。貧 T2039_.49.0986c04: 道百無所求。但願創佛寺於天境林。大興佛 T2039_.49.0986c05: 教。奉福邦家爾。王許之。命興工。俗方質儉。 T2039_.49.0986c06: 編茅葺屋。住而講演。時或天花落地。號興輪 T2039_.49.0986c07: 寺。毛祿之妹名史氏。投師爲尼。亦於三川岐。 T2039_.49.0986c08: 創寺而居。名永興寺。未幾。*末雛王即世。國 T2039_.49.0986c09: 人將害之。師還毛祿家。自作塚。閉戸自絶。遂 T2039_.49.0986c10: 不復現。因此大教亦廢。至二十三法興大王。 T2039_.49.0986c11: 以蕭梁天監十三年甲午登位。乃興釋氏。距 T2039_.49.0986c12: *末雛王癸未之歳二百五十二年。道寧所言 T2039_.49.0986c13: 三千餘月驗矣。據此。本記與本碑。二説相戻。 T2039_.49.0986c14: 不同如此。甞試論之。梁唐二僧傳。及三國本 T2039_.49.0986c15: 史皆載。麗濟二國佛教之始。在晋末大元之 T2039_.49.0986c16: 間。則二道法師。以小獸林甲戌到高麗明矣。 T2039_.49.0986c17: 此傳不誤。若以毘處王時方始到羅。則是阿 T2039_.49.0986c18: 道留高麗百餘歳乃來也。雖大聖行止出沒 T2039_.49.0986c19: 不常。未必皆爾。抑亦新羅奉佛非晩甚如此。 T2039_.49.0986c20: 又若在*末雛之世。則却超先於到麗甲戌百 T2039_.49.0986c21: 餘年矣。于時雞林未有文物禮教。國號猶未 T2039_.49.0986c22: 定。何暇阿道來請奉佛之事。又不合高麗未 T2039_.49.0986c23: 到而越至于羅也。設使暫興還廢。何其間寂 T2039_.49.0986c24: 寥無聞。而尚不識香名哉。一何大後。一何大 T2039_.49.0986c25: 先。揆夫東漸之勢。必始于麗濟而終乎羅。則 T2039_.49.0986c26: 訥祗既與獸林世相接也。阿道之辭麗抵羅。 T2039_.49.0986c27: 宜在訥祗之世。又王女救病。皆傳爲阿道之 T2039_.49.0986c28: 事。則所謂墨胡者非眞名也。乃指目之辭。如 T2039_.49.0986c29: 梁人指達摩爲碧眼胡。晋調釋道安爲柒道人 T2039_.49.0987a01: 類也。乃阿道危行避諱。而不言名姓故也。蓋 T2039_.49.0987a02: 國人隨其所聞。以墨胡阿道二名。分作二人 T2039_.49.0987a03: 爲傳爾。況云阿道儀表似墨胡。則以此可驗 T2039_.49.0987a04: 其一人也。道寧之序七處。直以創開先後預 T2039_.49.0987a05: 言之。兩傳失之。故今以沙川尾躋於五次。 T2039_.49.0987a06: 三千餘月未必盡信書。自訥祇之世抵乎丁 T2039_.49.0987a07: 未。無慮一百餘年。若曰一千餘月。則殆幾矣。
T2039_.49.0987a10: 武大元年末。齎經律數十部。往遼東宣化。現 T2039_.49.0987a11: 授三乘立以歸戒。蓋高麗聞道之始也。義煕 T2039_.49.0987a12: 初復還關中。聞導三輔。始足白於面。雖渉泥 T2039_.49.0987a13: 水。未甞沾濕。天上咸稱白足和尚云。晋末。朔 T2039_.49.0987a14: 方凶奴赫連勃勃。破獲關中。斬戮無數。時始 T2039_.49.0987a15: 亦遇害。刀不能傷。勃勃嗟嘆之。普赦沙門。悉 T2039_.49.0987a16: 皆不殺。始於是潜遁山澤。修頭陀行。拓拔燾 T2039_.49.0987a17: 復剋長安。擅威關洛。時有博陵崔皓。小習左 T2039_.49.0987a18: 道。猜嫉釋教。既位居僞輔。爲燾所信。乃與天 T2039_.49.0987a19: 師寇謙之説燾。佛教無益。有傷民利。勸令廢 T2039_.49.0987a20: 之云云。大平之末。始方知燾將化時至。乃以 T2039_.49.0987a21: 元會之日。忽杖鍚到宮門。燾聞令斬之。屡 T2039_.49.0987a22: 不傷燾自斬之亦無傷。飼北園。所養虎亦不 T2039_.49.0987a23: 敢近。燾大生慚𢣷。遂感癘疾。崔寇二人相 T2039_.49.0987a24: 次發惡病。燾以過由於彼。於是誅滅二家門 T2039_.49.0987a25: 族。宣下國中。大佛法。始後不知所終 議 T2039_.49.0987a26: 曰。曇始以大元末到海東。義煕初還關中。則 T2039_.49.0987a27: 留此十餘年。何東史無文。始既恢詭不測之 T2039_.49.0987a28: 人。而與阿道。墨胡。難陀。年事相同。三人中 T2039_.49.0987a29: 疑一必其變諱也。讃曰 T2039_.49.0987a30: 雪擁金橋凍不開 雞林春色未全迴 T2039_.49.0987b01: 可怜青帝多才思 先著毛郎宅裏梅
T2039_.49.0987b04: 頓爲法滅身。即蕭梁普通八年丁未。西竺達 T2039_.49.0987b05: 摩來金陵之歳也。是年。朗智法師亦始住靈 T2039_.49.0987b06: 鷲山開法。則大教興衰。必遠近相感。一時於 T2039_.49.0987b07: 此可信。元和中。南澗寺沙門一念撰髑香墳 T2039_.49.0987b08: 禮佛結社文。載此事甚詳。其略曰。昔在法興 T2039_.49.0987b09: 大王垂拱紫極之殿。俯察扶桑之域。以謂昔 T2039_.49.0987b10: 漢明感夢。佛法東流。寡人自登位。願爲蒼生
T2039_.49.0987b13: 王嘆曰。於戲。寡人以不徳丕承大業。上虧陰 T2039_.49.0987b14: 陽之造化。下無黎庶之歡。萬機之暇。留心 T2039_.49.0987b15: 釋風。誰與爲伴。粤有内養者。姓朴字厭髑。
T2039_.49.0987b21: 内之爪牙。聖朝忠臣。企河清之登侍。時年二
T2039_.49.0987b24: 諮。王曰。非爾所爲。舍人曰。爲國亡身。臣之 T2039_.49.0987b25: 大節。爲君盡命。民之直義。以謬傳辭。刑臣斬 T2039_.49.0987b26: 首。則萬民咸伏。不敢違教。王曰。解肉枰躯。 T2039_.49.0987b27: 將贖一鳥。洒血摧命。自怜七獸。朕意利人。 T2039_.49.0987b28: 何殺無罪。汝雖作功徳。不如避罪。舍人曰。一 T2039_.49.0987b29: 切難捨。不過身命。然小臣夕死。大教朝行。佛 T2039_.49.0987c01: 日再中。聖主長安。王曰。鸞鳳之子。幼有凌霄 T2039_.49.0987c02: 之心。鴻鵠之兒。生懷截波之勢。爾得如是。可 T2039_.49.0987c03: 謂大士之行乎。於焉大王權整威儀。風刀東 T2039_.49.0987c04: 西。霜仗南北。以召群臣。乃問卿等於我欲
T2039_.49.0987c08: 王忿怒。勅令斬之。有司縛到衙下。舍人作誓。
T2039_.49.0987c12: 戚。沾悲涙於龍衣。塚宰憂傷。流輕汗於蝉冕。 T2039_.49.0987c13: 甘泉忽渇。魚鼈爭躍。直木先折。猿猱群鳴。春 T2039_.49.0987c14: 宮連鏕之侶。泣血相顧。月庭交袖之朋。斷 T2039_.49.0987c15: 膓惜別。望柩聞聲。如喪考妣。咸謂子推割股。 T2039_.49.0987c16: 未足比其苦節。弘演刳腹。詎能方其壯烈。此 T2039_.49.0987c17: 乃扶丹墀之信力。成阿道之本心。聖者也。遂
T2039_.49.0987c20: 作禮。必獲世榮。人人行道。當曉法利。眞興大
T2039_.49.0987c25: 寺星張塔塔雁行。竪法幢。懸梵鏡。龍象釋徒。 T2039_.49.0987c26: 爲寰中之福田。大小乘法。爲京國之慈雲。他
T2039_.49.0987c29: 而爲家。故書徳名於天𨨣之樹。影神迹於星
T2039_.49.0988a03: 眞怒波珍喰金嶷等建舊塋。樹豐碑。元和十 T2039_.49.0988a04: 二年丁酉八月五日。即第四十一憲徳大王
T2039_.49.0988a07: 作梵。又郷傳云。郷老毎當忌旦。設社會於興 T2039_.49.0988a08: 輪寺。則今月初五。乃舍人捐躯順法之晨 T2039_.49.0988a09: 也。嗚呼。無是君無是臣。無是臣無是功。可 T2039_.49.0988a10: 謂劉葛魚水。雲龍感會之美歟。法興王既擧 T2039_.49.0988a11: 廢立寺。寺成。謝冕旒披方袍施宮戚爲寺隷
T2039_.49.0988a15: 因賜額大王興輪寺。前王姓金氏。出家法雲。
T2039_.49.0988a18: 妃亦創永興寺。慕史氏之遺風。同王落彩爲 T2039_.49.0988a19: 尼。名妙法。亦住永興寺。有年而終。國史云。 T2039_.49.0988a20: 建福三十一年。永興寺塑像自壞。未幾。眞興 T2039_.49.0988a21: 王妃比丘尼卒。按眞興乃法興之姪子。妃思 T2039_.49.0988a22: 刀夫人朴氏。牟梁里英失角干之女。亦出家 T2039_.49.0988a23: 爲尼。而非永興寺之創主也。則恐眞字當作 T2039_.49.0988a24: 法。謂法興之妃巴刁夫人爲尼者之卒也。乃 T2039_.49.0988a25: 創寺立像之主故也。二興捨位出家。史不書。 T2039_.49.0988a26: 非經世之訓也。又於大通元年丁未。爲梁帝
T2039_.49.0988b01: 法輪解逐金輪轉 舜日方將佛日高 T2039_.49.0988b02: 右原宗 T2039_.49.0988b03: 徇義輕生已足驚 天花白乳更多情 T2039_.49.0988b04: 俄然一釼身亡後 院院鐘聲動帝京 T2039_.49.0988b05: 右厭髑 T2039_.49.0988b06: 法王禁殺 T2039_.49.0988b07: 百濟第二十九主法王諱宣。或云孝順。開皇 T2039_.49.0988b08: 十年己未即位。是年冬。下詔禁殺生。放民家 T2039_.49.0988b09: 所養鷹鸇之類。焚漁獵之具。一切禁止。明年 T2039_.49.0988b10: 庚申度僧三十人。創王興寺於時都泗泚城
T2039_.49.0988b13: 木秀麗。四時之美具焉。王毎命舟。沿河入寺。
T2039_.49.0988b17: 莫噵聖君輕下世 上方兜率正芳春 T2039_.49.0988b18: 寶藏奉老 普徳移庵 T2039_.49.0988b19: 高麗本記云。麗季武徳貞觀間。國人爭奉五 T2039_.49.0988b20: 斗米教。唐高祖聞之。遣道士送天尊像來。講 T2039_.49.0988b21: 道徳經。王與國人聽之。即第二十七代榮留 T2039_.49.0988b22: 王即位七年武徳七年甲申也。明年遣使往
T2039_.49.0988b26: 普徳和尚住盤龍寺。憫左道匹正。國祚危矣。 T2039_.49.0988b27: 屡諫不聽。乃以神力飛方丈。南移于完山州
T2039_.49.0988c03: 是隋煬帝征遼東。有裨將羊皿不利於軍。將 T2039_.49.0988c04: 死有誓曰。必爲寵臣滅彼國矣。及蓋氏擅朝。 T2039_.49.0988c05: 以蓋爲氏。乃以羊皿是之應也。又按高麗古 T2039_.49.0988c06: 記云。隋煬帝以大業八年壬申。領三十萬兵。
T2039_.49.0988c10: 帝胸。帝將旋師。謂左右曰。朕爲天下之主親 T2039_.49.0988c11: 征小國而不利。萬代之所嗤。時右相羊皿奏 T2039_.49.0988c12: 曰。臣死爲高麗大臣。必滅國。報帝王之讎帝 T2039_.49.0988c13: 崩後生於高麗。十五聰明神武。時武陽王聞
T2039_.49.0988c18: 無道教。故國危矣。王然之。奏唐請之。太宗遣
T2039_.49.0988c22: 行鎭國内。有名山川。古平壤城勢新月城 T2039_.49.0988c23: 也。道士等呪勅南河龍。加築爲滿月城。因名 T2039_.49.0988c24: 龍堰城。作曰。龍堰堵。且云千年寶藏堵。或
T2039_.49.0988c27: 乃畢。及寶藏王之世。唐太宗親統以六軍來 T2039_.49.0988c28: 征。又不利而還。高宗總章元年戊辰。右相劉 T2039_.49.0988c29: 仁軌。大將軍李勣。新羅金仁問等攻破國滅 T2039_.49.0989a01: 擒王歸唐。寶藏王庶子率四千餘家投于新
T2039_.49.0989a04: 涅槃方等教傳受自吾師云云。至可惜飛房 T2039_.49.0989a05: 後。東明古國危。跋云。高麗藏王感於道教。不 T2039_.49.0989a06: 信佛法。師乃飛房。南至此山。後有神人。現於 T2039_.49.0989a07: 高麗馬嶺。告人云。汝國敗亡無日矣。具如國 T2039_.49.0989a08: 史。餘具載本傳與僧傳。師有高弟十一人。無 T2039_.49.0989a09: 上和尚與弟子金趣等創金洞寺。寂滅義融 T2039_.49.0989a10: 二師創珍丘寺。智薮創大乘寺。一乘與心正 T2039_.49.0989a11: 大原等創大原寺。水淨創維摩寺。四大與契 T2039_.49.0989a12: 育等創中臺寺。開原和尚創開原寺。明徳創 T2039_.49.0989a13: 燕口寺。開心與普明亦有傳。皆如本傳。讃曰 T2039_.49.0989a14: 釋氏汪洋海不窮 百川儒老盡朝宋 T2039_.49.0989a15: 麗王可笑封沮洳 不省滄溟徒臥龍 T2039_.49.0989a16: 東京興輪寺金堂十聖 T2039_.49.0989a17: 東壁坐庚向泥塑 我道 厭髑 惠宿 安 T2039_.49.0989a18: 含 義湘 T2039_.49.0989a19: 西壁坐甲向泥塑 表訓 蛇巴 元曉 惠 T2039_.49.0989a20: 空 慈藏 T2039_.49.0989a21: 塔像 T2039_.49.0989a22: 迦葉佛宴坐石 T2039_.49.0989a23: 玉龍集及慈藏傳與諸家傳紀皆云。新羅月 T2039_.49.0989a24: 城東龍宮南有迦葉佛宴坐石。其地即前佛 T2039_.49.0989a25: 時伽藍之墟也。今皇龍寺之地。即七伽藍之 T2039_.49.0989a26: 一也。按國史。眞興王即位十四開國三年癸 T2039_.49.0989a27: 酉二月。築新宮於月城東。有皇龍現其地。王 T2039_.49.0989a28: 疑之。改爲皇龍寺。宴坐石在佛殿後面。甞一 T2039_.49.0989a29: 謁焉。石之高可五六尺。來圍僅三肘。幢立而 T2039_.49.0989b01: 平頂。眞興創寺已來。再經災火。石有拆裂處。 T2039_.49.0989b02: 寺僧貼鐵爲護。乃有讃曰。惠日沈輝不記年。 T2039_.49.0989b03: 唯餘宴坐石依然。桑田幾度成滄海。可惜巍 T2039_.49.0989b04: 然尚未遷。既而西山大兵已後。殿塔煨燼。而 T2039_.49.0989b05: 此石亦夷沒。而僅與地平矣。按阿含經迦葉 T2039_.49.0989b06: 佛。是賢劫第三尊也。人壽二萬歳時。出現於 T2039_.49.0989b07: 世。據此以増減法計之。毎成劫初。皆壽無量 T2039_.49.0989b08: 歳。漸減至壽八萬歳時。爲住劫之初。自此又 T2039_.49.0989b09: 百年減一歳。至壽十歳時爲一減。又増至人 T2039_.49.0989b10: 壽八萬歳時爲一増。如是二十減二十増爲 T2039_.49.0989b11: 一住劫。此一住劫中有千佛出世。今本師釋 T2039_.49.0989b12: 迦是第四尊也。四尊皆現於第九減中。自釋 T2039_.49.0989b13: 尊百歳壽時。至迦葉佛二萬歳時。已得二百 T2039_.49.0989b14: 萬餘歳。若至賢劫初第一尊拘留孫佛時。又 T2039_.49.0989b15: 幾萬歳也。自拘留孫佛時。上至劫初無量歳 T2039_.49.0989b16: 壽時。又幾何也。自釋尊下至于今至元十八 T2039_.49.0989b17: 年辛巳歳。已得二千二百三十矣。自拘留孫 T2039_.49.0989b18: 佛歴迦葉佛時至于今。則直幾萬歳也。有本 T2039_.49.0989b19: 朝名士呉世文。作歴代歌。從大金貞祐七年 T2039_.49.0989b20: 己卯。逆數至四萬九千六百餘歳。爲盤古開 T2039_.49.0989b21: 闢戊寅。又延禧宮録事金希寧所撰大一歴 T2039_.49.0989b22: 法。自開闢上元甲子至元豐甲子。一百九十 T2039_.49.0989b23: 三萬七千六百四十一歳。又纂古圖云。開闢 T2039_.49.0989b24: 至獲麟。二百七十六萬歳。按諸經。且以迦葉 T2039_.49.0989b25: 佛時至于今。爲此石之壽。尚距於劫初開闢 T2039_.49.0989b26: 時爲兒子矣。三家之説尚不及茲兒石之年。 T2039_.49.0989b27: 其於開闢之説。疎之遠矣 T2039_.49.0989b28: 遼東城育王塔 T2039_.49.0989b29: 三寶感通録載。高麗遼東城傍塔者。古老傳 T2039_.49.0989c01: 云。昔高麗聖王按行國界次。至此城見五色 T2039_.49.0989c02: 雲覆地。往尋雲中。有僧執錫而立。既至便滅。 T2039_.49.0989c03: 遠看還現。傍有土塔三重。上如覆釜。不知是 T2039_.49.0989c04: 何。更往覓僧。唯有荒草。掘尋一丈。得杖并 T2039_.49.0989c05: 履。又掘得銘。上有梵書。侍臣識之云是佛塔。
T2039_.49.0989c09: 浮提洲。處處立塔。不足可怪。又唐龍朔中有 T2039_.49.0989c10: 事遼左。行軍薛仁貴行至隋主討遼古地。乃 T2039_.49.0989c11: 見山像。空曠蕭條。絶於行往。問古老。云是先
T2039_.49.0989c14: 王未知何君。或云東明聖帝。疑非也。東明以 T2039_.49.0989c15: 前漢元帝建昭二年即位。成帝鴻嘉壬寅升 T2039_.49.0989c16: 遐。于時漢亦未見具葉。何得海外陪臣已能 T2039_.49.0989c17: 識梵書乎。然稱佛爲蒲圖王。似在西漢之時。 T2039_.49.0989c18: 西域文字或有識之者。故云梵書爾。按古傳 T2039_.49.0989c19: 育王命鬼徒。毎於九億人居地立一塔。如是 T2039_.49.0989c20: 起八萬四千於閻浮界。内藏於巨石中。今處 T2039_.49.0989c21: 處有現瑞非一。蓋眞身舍利。感應難思矣。讃 T2039_.49.0989c22: 曰 T2039_.49.0989c23: 育王寶塔遍塵寰 雨濕雲埋蘚纈班 T2039_.49.0989c24: 想像當年行路眼 幾人指點祭神墦 T2039_.49.0989c25: 金官城婆娑石塔 T2039_.49.0989c26: 金官虎溪寺婆娑石塔者。昔此邑爲金官國 T2039_.49.0989c27: 時。世祖首露王之妃許皇后名黄玉。以東漢 T2039_.49.0989c28: 建武二十四年甲申。自西域阿踰陀國所載 T2039_.49.0989c29: 來。初公主承二親之命。泛海將指東。阻波神 T2039_.49.0990a01: 之怒。不克而還。白父王。父王命載茲塔。乃獲 T2039_.49.0990a02: 利渉。來泊南涯。有緋帆茜旗珠玉之美。今云 T2039_.49.0990a03: 主浦。初解綾袴於岡上處曰綾峴。茜旗初入 T2039_.49.0990a04: 海涯曰旗出邊。首露王聘迎之。同御國一百 T2039_.49.0990a05: 五十餘年。然于時海東未有創寺奉法之事。 T2039_.49.0990a06: 蓋像教未至。而土人不信伏。故本記無創寺 T2039_.49.0990a07: 之文。逮第八代銍知王二年壬辰。置寺於其
T2039_.49.0990a10: 彫鏤甚奇。石微赤班色。其質良脆。非此方類 T2039_.49.0990a11: 也。本草所云點鷄冠血爲驗者是也。金官國 T2039_.49.0990a12: 亦名駕洛國。具載本記。讃曰 T2039_.49.0990a13: 載厭緋帆茜斾輕 乞靈遮莫海涛驚 T2039_.49.0990a14: 豈徒到岸扶黄玉 千古南倭遏怒鯨 T2039_.49.0990a15: 高麗靈塔寺 T2039_.49.0990a16: 僧傳云。釋普徳字智法。前高麗龍岡縣人也。 T2039_.49.0990a17: 詳見下本傳。常居平壤城有山方。老僧來請 T2039_.49.0990a18: 講經。師固辭。不兌。赴講涅槃經四十餘卷。 T2039_.49.0990a19: 罷席至城西大寶山嵓穴下禪觀。有神人來 T2039_.49.0990a20: 請。宜住此地。乃置錫杖於前。指其地曰。此下 T2039_.49.0990a21: 有八面七級石塔。掘之果然。因立精舍。曰靈 T2039_.49.0990a22: 塔寺以居之 T2039_.49.0990a23: 皇龍寺丈六 T2039_.49.0990a24: 新羅第二十四眞興王即位十四年癸酉二 T2039_.49.0990a25: 月。將築紫宮於龍宮南。有黄龍現其地。乃改 T2039_.49.0990a26: 置爲佛寺。號黄龍寺。至己丑年周圍牆宇。至 T2039_.49.0990a27: 十七年方畢。未幾海南有一巨舫。來泊於河
T2039_.49.0990b03: 并載摸樣一佛二菩薩像。縣吏具状上聞。勅 T2039_.49.0990b04: 使卜其縣之城東爽塏之地。創東竺寺。邀安 T2039_.49.0990b05: 其三尊。輸其金鐵於京師。以大建六年甲午
T2039_.49.0990b08: 分。二菩薩入鐵一萬二千斤。黄金一萬一百 T2039_.49.0990b09: 三十六分。安於皇龍寺。明年像涙流至踵。 T2039_.49.0990b10: 地一尺。大王升遐之兆。或云。像成在眞平 T2039_.49.0990b11: 之世者謬也。別本云。阿育王在西竺大香華 T2039_.49.0990b12: 國。生佛後一百年間。恨不得供養眞身。歛化 T2039_.49.0990b13: 金鐵若干斤。三度鑄成無功。時王之太子獨 T2039_.49.0990b14: 不預斯事。王使詰之。太子奏云。獨力非功。曾 T2039_.49.0990b15: 知不就。王然之。乃載舡泛海。南閻浮提十六 T2039_.49.0990b16: 大國。五百中國。十千小國。八萬聚落。靡不周 T2039_.49.0990b17: 旋。皆鑄不成。最後到新羅國。眞興王鑄之於 T2039_.49.0990b18: 文仍林。像成。相好畢備。阿育此飜無憂。後大 T2039_.49.0990b19: 徳慈藏西學到五臺山。感文殊現身。授訣仍 T2039_.49.0990b20: 囑云。汝國皇龍寺。乃釋迦與迦葉佛講演之 T2039_.49.0990b21: 地。宴坐石猶在。故天竺無憂王。聚黄鐵若干 T2039_.49.0990b22: 斤泛海。歴一千三百餘年。然後乃到而國。成
T2039_.49.0990b25: 辰。金堂造成。善徳王代。寺初主眞骨歡喜 T2039_.49.0990b26: 師。第二主慈藏國統。次國統惠訓。次廂律師 T2039_.49.0990b27: 云。今兵火已來。大像與二菩薩皆融沒。而小 T2039_.49.0990b28: 釋迦猶存焉。讃曰 T2039_.49.0990b29: 塵方何處匪眞郷 香火因縁最我邦 T2039_.49.0990c01: 不是育王難下手 月城來訪舊行藏 T2039_.49.0990c02: 皇龍寺九層塔 T2039_.49.0990c03: 新羅第二十七善徳王即位五年。貞觀十年 T2039_.49.0990c04: 丙申。慈藏法師西學。乃於五臺感文殊授法
T2039_.49.0990c07: 山川崎嶮故。人性麁悖。多信邪見。而時或天 T2039_.49.0990c08: 神降禍。然有多聞比丘在於國中。是以君臣 T2039_.49.0990c09: 安泰。萬庶和平矣。言已不現。藏知是大聖變 T2039_.49.0990c10: 化。泣血而退。經由中國太和池邊。忽有神人 T2039_.49.0990c11: 出問。胡爲至此。藏答曰。求菩提故。神人禮拜。 T2039_.49.0990c12: 又問。汝國有何留難。藏曰。我國北連靺鞨。南 T2039_.49.0990c13: 接倭人。麗濟二國。迭犯封陲。隣縱横。是爲 T2039_.49.0990c14: 民梗。神人云。今汝國以女爲王。有徳而無威。 T2039_.49.0990c15: 故隣國謀之。宜速歸本國。藏問歸郷將何爲 T2039_.49.0990c16: 利益乎。神曰。皇龍寺護法龍。是吾長子。受梵 T2039_.49.0990c17: 王之命。來護是寺。歸本國成九層塔於寺中。 T2039_.49.0990c18: 隣國降伏。九韓來貢。王祚永安矣。建塔之後 T2039_.49.0990c19: 設八關會。赦罪人。則外賊不能爲害。更爲我 T2039_.49.0990c20: 於京畿南岸置一精廬。共資予福。予亦報之
T2039_.49.0990c24: 於上。善徳王議於群臣。群臣曰。請工匠於百 T2039_.49.0990c25: 濟。然後方可。乃以寶帛請於百濟。匠名阿非
T2039_.49.0990c28: 百濟滅亡之状。匠乃心疑停手。忽大地震動。 T2039_.49.0990c29: 晦冥之中有一老僧一壯士。自金殿門出。乃 T2039_.49.0991a01: 立其柱。僧與壯士皆隱不現。匠於是改悔。畢 T2039_.49.0991a02: 成。其塔刹柱記云。鐵盤已上高四十二尺。已 T2039_.49.0991a03: 下一百八十三尺。慈藏以五臺所授舍利百 T2039_.49.0991a04: 粒分安於柱中。并通度寺戒壇。及大和寺塔。
T2039_.49.0991a07: 麗王將謀伐羅。乃曰。新羅有三寶。不可犯也。 T2039_.49.0991a08: 何謂也。皇龍丈六。并九層塔。與眞平王天賜 T2039_.49.0991a09: 玉帶。遂寢其謀。周有九鼎。楚人不敢北窺。此 T2039_.49.0991a10: 之類也。讃曰 T2039_.49.0991a11: 鬼拱神扶壓帝京 輝煌金碧動飛甍 T2039_.49.0991a12: 登臨何啻九韓伏 始覺乾坤特地平 T2039_.49.0991a13: 又海東名賢安弘撰東都成立記云。新羅第 T2039_.49.0991a14: 二十七代。女王爲主。雖有道無威。九韓侵勞 T2039_.49.0991a15: 苦。龍宮南皇龍寺建九層塔。則隣國之災可 T2039_.49.0991a16: 鎭。第一層日本。第二層中華。第三層呉越。第 T2039_.49.0991a17: 四層托羅。第五層鷹遊。第六層靺鞨。第七層 T2039_.49.0991a18: 丹國。第八層女狄。第九層獩。又按國史 T2039_.49.0991a19: 及寺中古記。眞興王癸酉創寺後。善徳王代。 T2039_.49.0991a20: 貞觀十九年乙巳。塔初成。三十二孝昭王即
T2039_.49.0991a24: 第三重修。至本朝光宗即位五年癸丑十月。 T2039_.49.0991a25: 第三霹靂。現宗十三年辛酉。第四重成。又靖 T2039_.49.0991a26: 宗二年乙亥。第四霹靂。又文宗甲辰年。第五 T2039_.49.0991a27: 重成。又憲宗末年乙亥。第五霹靂。肅宗丙子。 T2039_.49.0991a28: 第六重成。又高宗十六年戊戌冬月。西山兵 T2039_.49.0991a29: 火。塔寺丈六殿宇皆災 T2039_.49.0991b01: 皇龍寺鐘 芬皇寺藥師 奉徳寺鐘 T2039_.49.0991b02: 新羅第三十五景徳大王。以天寶十三甲午 T2039_.49.0991b03: 鑄皇龍寺鐘。長一丈三寸。厚九寸入。重四十 T2039_.49.0991b04: 九萬七千五百八十一斤。施主孝貞伊王三毛 T2039_.49.0991b05: 夫人。匠人里上宅一典。肅宗朝。重成新鐘。長 T2039_.49.0991b06: 六尺八寸。又明年乙未。鑄芬皇藥師銅像。重 T2039_.49.0991b07: 三十萬六千七百斤。匠人本彼部強古乃未。 T2039_.49.0991b08: 又捨黄銅一十二萬斤。爲先考聖徳王欲鑄 T2039_.49.0991b09: 巨鐘一口。未就而崩。其子惠恭大王乾運。以 T2039_.49.0991b10: 大暦庚戌十二月。命有司鳩工徒。乃克成之。 T2039_.49.0991b11: 安於奉徳寺。寺乃孝成王。開元二十六年戊 T2039_.49.0991b12: 寅。爲先考聖徳大王奉福所創也。故鐘銘曰
T2039_.49.0991b16: 靈妙寺丈六 T2039_.49.0991b17: 善徳王創寺。塑像因縁。具載良志法師傳。景 T2039_.49.0991b18: 徳王即位二十三年。丈六改金。租二萬三千
T2039_.49.0991b21: 竹嶺東百許里。有山屹然高峙。眞平王九年 T2039_.49.0991b22: 甲申。忽有一大石。四面方丈。彫四方如來。皆 T2039_.49.0991b23: 以紅紗護之。自天墜其山頂。王聞之命駕瞻 T2039_.49.0991b24: 敬。遂創寺嵓側。額曰大乘寺。請比丘亡名誦 T2039_.49.0991b25: 蓮經者主寺。洒掃供石。香火不廢。號曰亦徳 T2039_.49.0991b26: 山。或曰四佛山。比丘卒既葬。塚上生蓮 T2039_.49.0991b27: 又景徳王遊幸柏栗寺。至山下聞地中有唱 T2039_.49.0991b28: 佛聲。令掘之。得大石。四面刻四方佛。因創寺。 T2039_.49.0991b29: 以掘佛爲號。今訛云掘石 王又聞唐代宗 T2039_.49.0991c01: 皇帝優崇釋氏。命工作五色氍毹。又彫沈檀 T2039_.49.0991c02: 木與明珠美玉爲假山。高丈餘。置氍毹之上。 T2039_.49.0991c03: 山有巉嵓怪石澗穴。區隔毎一區内。有歌舞 T2039_.49.0991c04: 伎樂列國山川之状。微風入戸。蜂蝶翔。燕 T2039_.49.0991c05: 雀飛舞。隱約視之。莫辨眞假。中安萬佛。大 T2039_.49.0991c06: 者逾方寸。小者八九分。其頭或巨黍者。或半 T2039_.49.0991c07: 菽者。螺髻白毛。眉目的。相好悉備。只可髣 T2039_.49.0991c08: 髴。莫得而詳。因號萬佛山。更鏤金玉爲流蘇 T2039_.49.0991c09: 幡蓋菴羅薝葍花果莊嚴。百歩樓閣。臺殿堂 T2039_.49.0991c10: 榭。都大雖微。勢皆活動。前有旋遶比丘像 T2039_.49.0991c11: 千餘躯。下列紫金鐘三。皆有閣有蒲牢。鯨 T2039_.49.0991c12: 魚爲撞。有風而鐘鳴。則旋遶僧皆仆。拜頭至 T2039_.49.0991c13: 地。隱隱有梵音。蓋關棙在乎鐘也。雖號萬佛。 T2039_.49.0991c14: 其實不可勝記。既成。遣使獻之。代宗見之。 T2039_.49.0991c15: 嘆曰。新羅之巧。天造非巧也。乃以九光扇加 T2039_.49.0991c16: 置嵓岫間。因謂之佛光。四月八日。詔兩街僧 T2039_.49.0991c17: 徒。於内道場禮萬佛山。命三藏不空念讃密 T2039_.49.0991c18: 部眞詮千遍以慶之。觀者皆嘆伏其巧。讃曰 T2039_.49.0991c19: 天粧滿月四方裁 地湧明毫一夜開 T2039_.49.0991c20: 妙手更煩彫萬佛 眞風要使遍三才 T2039_.49.0991c21: 生義寺石彌勒 T2039_.49.0991c22: 善徳王時。釋生義常住道中寺。夢有僧引上 T2039_.49.0991c23: 南山而行。令結草爲標。至山之南洞。謂曰。 T2039_.49.0991c24: 我埋此處。請師出安嶺上。既覺。與友人尋 T2039_.49.0991c25: 所標。至其洞掘地。有石彌勒出。置於三花嶺 T2039_.49.0991c26: 上。善徳王十二年甲辰歳。創寺而居。後名
T2039_.49.0991c29: 第五十四景明王時。興輪寺南門。及左右廊 T2039_.49.0992a01: 廡災焚。未修。靖和繼二僧募縁將修。貞明 T2039_.49.0992a02: 七年辛巳五月十五日。帝釋降于寺之左經 T2039_.49.0992a03: 樓。留旬日。殿塔及草樹土石皆發異香。五雲 T2039_.49.0992a04: 覆寺。南池魚龍喜躍跳擲。國人聚觀。嘆未曾 T2039_.49.0992a05: 有。玉帛梁稻施積丘山。工匠自來。不日成之。 T2039_.49.0992a06: 工既畢。天帝將還。二僧白曰。天若欲還宮。請 T2039_.49.0992a07: 圖寫聖容。至誠供養。以報天恩。亦乃因茲留 T2039_.49.0992a08: 影。永鎭下方焉。帝曰。我之願力不如彼普賢 T2039_.49.0992a09: 菩薩遍垂玄化。畫此菩薩像。虔設供養而不 T2039_.49.0992a10: 廢宜矣。二僧奉教。敬畫普賢菩薩於壁間。至 T2039_.49.0992a11: 今猶存其像 T2039_.49.0992a12: 三所觀音 衆生寺 T2039_.49.0992a13: 新羅古傳云。中華天子有寵姫。美艶無雙。謂
T2039_.49.0992a18: 疑赤誌必自天生。功畢獻之。帝目之曰。形則 T2039_.49.0992a19: 逼眞矣。其臍下之誌乃所内祕。何得知之并 T2039_.49.0992a20: 寫。帝乃震怒。下圓扉將加刑。丞相奏云。所 T2039_.49.0992a21: 謂伊人其心且直。願赦宥之。帝曰。彼既賢直。 T2039_.49.0992a22: 朕昨夢之。像畫進不差則宥之。其人乃畫十 T2039_.49.0992a23: 一面觀音像呈之。協於所夢。帝於是意解赦 T2039_.49.0992a24: 之。其人既免。乃與博士芬節約曰。吾聞新羅 T2039_.49.0992a25: 國敬信佛法。與子乘桴于海。適彼同修佛事。 T2039_.49.0992a26: 廣益仁邦。不亦益乎。遂相與到新羅國。因成 T2039_.49.0992a27: 此寺大悲像。國人瞻仰。禳祷獲福。不可勝記。 T2039_.49.0992a28: 羅季天成中。正甫崔殷諴久無胤息。詣茲寺 T2039_.49.0992a29: 大慈前祈祷。有娠而生男。未盈三朔。百濟甄 T2039_.49.0992b01: 萱襲犯京師。城中大潰。殷諴抱兒來告曰。隣 T2039_.49.0992b02: 兵奄至事急矣。赤子累重不能倶免。若誠大 T2039_.49.0992b03: 聖之所賜。願借大慈之力覆養之。令我父子 T2039_.49.0992b04: 再得相見。涕泣悲惋。三泣而三告之。裹以襁 T2039_.49.0992b05: 褓。藏諸猊座下。眷眷而去。經半月寇退。來尋 T2039_.49.0992b06: 之。肌膚如新浴。貌體嬛好。乳香尚痕於口。抱 T2039_.49.0992b07: 持歸養。及壯聰惠過人。是爲氶魯。位至正 T2039_.49.0992b08: 匡。氶魯生郎中崔肅。生郎中齊顏焉。自此繼 T2039_.49.0992b09: 嗣不絶。殷諴隨敬順王入本朝爲大姓。又統 T2039_.49.0992b10: 和十年三月。主寺釋性泰跪於菩薩前。自言 T2039_.49.0992b11: 弟子久住茲寺。精勤香火。晝夜匪懈。然以寺 T2039_.49.0992b12: 無田出香祀無繼。將移他所。故來辭爾。是日 T2039_.49.0992b13: 假寐。夢大聖謂曰。師且住無遠離。我以縁化 T2039_.49.0992b14: 充齋費。僧忻然感寤。遂留不行。後十三日。忽 T2039_.49.0992b15: 有二人。馬載牛馱到於門前。寺僧出問何所 T2039_.49.0992b16: 而來。曰。我等是金州界人。向有一比丘到我 T2039_.49.0992b17: 云。我住東京衆生寺久矣。欲以四事之難縁 T2039_.49.0992b18: 化到此。是以歛施隣閭。得米六碩鹽四碩。負 T2039_.49.0992b19: 載而來。僧曰。此寺無人縁化者。爾輩恐聞之 T2039_.49.0992b20: 誤。其人曰。向之比丘率我輩而來。到此神見 T2039_.49.0992b21: 井邊曰。距寺不遠。我先往待之。我輩隨逐而 T2039_.49.0992b22: 來。寺僧引入法堂前。其人瞻禮大聖。相謂曰。 T2039_.49.0992b23: 此縁化比丘之像也。驚嘆不已。故所納米鹽 T2039_.49.0992b24: 追年不廢。又一夕寺門有火災。閭里奔救。升 T2039_.49.0992b25: 堂見像。不知所在。視之已立在庭中矣。問其 T2039_.49.0992b26: 出者誰。皆曰不知。乃知大聖靈威也。又大定 T2039_.49.0992b27: 十三年癸巳間。有僧占崇。得住茲寺。不解文 T2039_.49.0992b28: 字。性本純粹。精勤火香。有一僧欲奪其居。訴 T2039_.49.0992b29: 於襯衣天使曰。茲寺所以國家祈恩奉福之 T2039_.49.0992c01: 所。宜選會讀文疏者主之。天使然之。欲試其 T2039_.49.0992c02: 人。乃倒授疏文。占崇應手披讀如流。天使服 T2039_.49.0992c03: 膺。退坐房中。俾之再讀。崇鉗口無言。天使曰。 T2039_.49.0992c04: 上人良由大聖之所護也。終不奪之。當時與 T2039_.49.0992c05: 崇同住者。處士金仁夫傳諸郷老。筆之于傳 T2039_.49.0992c06: 柏栗寺 T2039_.49.0992c07: 雞林之北岳曰金剛嶺。山之陽有柏栗寺。寺 T2039_.49.0992c08: 有大悲之像一躯。不知作始。而靈異頗著。或 T2039_.49.0992c09: 云。是中國之神匠塑衆生寺像時并造也。諺 T2039_.49.0992c10: 云。此大聖曾上忉利天。還來入法堂時。所履 T2039_.49.0992c11: 石上脚迹至今不。或云。救夫禮郎還來時 T2039_.49.0992c12: 之所視迹也。天授三年壬辰九月七日。孝昭 T2039_.49.0992c13: 王奉大玄薩喰之子夫禮郎爲國仙。珠履千
T2039_.49.0992c16: 去。門客皆失措而還。獨安常追迹之。是三月 T2039_.49.0992c17: 十一日也。大王聞之。驚駭不勝曰。先君得神 T2039_.49.0992c18: 笛傳于朕躬。今與玄琴藏在内庫。困何國仙
T2039_.49.0992c21: 曰。朕何不予。昨失國仙。又亡琴笛。乃囚司庫 T2039_.49.0992c22: 吏金貞高等五人。四月。募於國曰。得琴笛者 T2039_.49.0992c23: 賞之一歳租。五月十五日郎二親就柏栗寺大 T2039_.49.0992c24: 悲像前禋祈累夕。忽香卓上得琴笛二寶。而 T2039_.49.0992c25: 郎常二人來到於像後。二親顛喜。問其所由 T2039_.49.0992c26: 來。郎曰。予自被掠爲彼國大都仇羅家之牧
T2039_.49.0992c29: 不覺跪于前曰。眷戀君親。何論其極。僧曰。然 T2039_.49.0993a01: 則宜從我來。遂率至海壖。又與安常會。乃批 T2039_.49.0993a02: 笛爲兩分。與二人各乘一隻。自乘其琴。泛泛 T2039_.49.0993a03: 歸來。俄然至此矣。於是具事馳聞。王大驚使 T2039_.49.0993a04: 迎。郎隨琴笛入内。施鑄金銀五器二副各重 T2039_.49.0993a05: 五十兩。摩衲袈裟五領。大綃三千匹。田一萬 T2039_.49.0993a06: 頃納於寺。用答慈庥焉。大赦國内。賜人爵三 T2039_.49.0993a07: 級。復民租三年。主寺僧移住奉聖。封郎爲大
T2039_.49.0993a10: 庫五人皆免。賜爵各五級。六月十二日。有彗 T2039_.49.0993a11: 星孛于東方。十七日。又孛于西方。日官奏曰。 T2039_.49.0993a12: 不封爵於琴笛之瑞。於是册號神笛爲萬萬 T2039_.49.0993a13: 波波息。彗乃滅。後多靈異。文煩不載。世謂安 T2039_.49.0993a14: 常爲俊永郎徒。不之審也。永郎之徒。唯眞才
T2039_.49.0993a17: 禺金里貧女寶開有子名長春。從海賈而征。
T2039_.49.0993a20: 飄舶壞。同侶皆不免。予乘隻板歸泊呉涯。呉 T2039_.49.0993a21: 人收之俾耕于野。有異僧如郷里來。弔慰勤 T2039_.49.0993a22: 勤。率我同行。前有深渠。僧掖我跳之。昏昏間 T2039_.49.0993a23: 如聞郷音與哭泣之聲。見之乃已屆此矣。日 T2039_.49.0993a24: 晡時離呉至此纔戌初。即天寶四年乙酉四 T2039_.49.0993a25: 月八日也。景徳王聞之。施田於寺。又納財幣 T2039_.49.0993a26: 焉 T2039_.49.0993a27: 前後所將舍利 T2039_.49.0993a28: 國史云。眞興王大清三年己巳。梁使沈湖送 T2039_.49.0993a29: 舍利若于粒。善徳王代貞觀十七年癸卯。慈 T2039_.49.0993b01: 藏法師所將佛頭骨佛牙佛舍利百粒。佛所 T2039_.49.0993b02: 著緋羅金點袈裟一領。其舍利分爲三。一分 T2039_.49.0993b03: 在皇龍塔。一分在大和塔。一分并袈裟在通 T2039_.49.0993b04: 度寺戒壇。其餘未詳所在。壇有二級。上級之 T2039_.49.0993b05: 中安石蓋如覆。諺云。昔在本朝相次有二 T2039_.49.0993b06: 廉使。禮壇擧石而敬之。前感修蟒在函中。 T2039_.49.0993b07: 後見巨蟾蹲石腹。自此不敢擧之。近有上將 T2039_.49.0993b08: 軍金公利生庾侍郎碩。以高廟朝受旨指揮 T2039_.49.0993b09: 江東。仗節到寺。擬欲擧石瞻禮。寺僧以往事 T2039_.49.0993b10: 難之。二公令軍士固擧之。内有小石函。函襲 T2039_.49.0993b11: 之中貯以瑠璃筒。筒中舍利只四粒。傳示瞻 T2039_.49.0993b12: 敬。筒有小傷裂處。於是庾公適蓄一水精函 T2039_.49.0993b13: 子。遂奉施兼藏焉。識之以記移御江都。四年 T2039_.49.0993b14: 乙未歳也。古記稱百枚分藏三處。今唯四爾。 T2039_.49.0993b15: 既隱現隨人。多小不足怪也。又諺云。其皇龍 T2039_.49.0993b16: 寺塔災之日。石之東面始有大班。至今猶 T2039_.49.0993b17: 然。即大遼應暦三年癸丑歳也。本朝光廟五 T2039_.49.0993b18: 載也。塔之第三災也。曹溪無衣子留詩云。聞 T2039_.49.0993b19: 噵皇龍災塔日。連燒一面示無間。是也。自至 T2039_.49.0993b20: 元甲子已來大朝使佐本國。皇華爭來瞻禮。 T2039_.49.0993b21: 四方雲水。輻湊來參。或擧不擧。眞身四枚外。 T2039_.49.0993b22: 變身舍利。碎如砂礫。現於外。而異香郁烈。 T2039_.49.0993b23: 彌日不歇者比比有之。此末季一方之奇事 T2039_.49.0993b24: 也。唐大中五年辛未。入朝使元弘所將佛牙
T2039_.49.0993c01: 終南山至相寺智儼尊者處。隣有宣律師。常 T2039_.49.0993c02: 受天供。毎齋時天厨送食。一日律師請湘公 T2039_.49.0993c03: 齋。湘至坐定既久。天供過時不至。湘乃空鉢 T2039_.49.0993c04: 而歸。天使乃至。律師問今日何故遲。天使曰。 T2039_.49.0993c05: 滿洞有神兵遮擁。不能得入。於是律師知湘 T2039_.49.0993c06: 公有神衞。乃服其道勝。仍留其供具。翌日又 T2039_.49.0993c07: 邀儼湘二師齋。具陳其由。湘公從容謂宣曰。 T2039_.49.0993c08: 師既被天帝所敬。甞聞帝釋宮有佛四十齒 T2039_.49.0993c09: 之一牙。爲我等輩請下人間。爲福如何。律師 T2039_.49.0993c10: 後與天使傳其意於上帝。帝限七日送與。湘 T2039_.49.0993c11: 公致敬訖。邀安大内。後至大宋徽宗朝。崇奉 T2039_.49.0993c12: 左道。時國人傳圖讖曰。金人敗國。黄巾之徒 T2039_.49.0993c13: 諷。日官奏曰。金人者佛教之謂也。將不利於 T2039_.49.0993c14: 國家。議將破滅釋氏。坑諸沙門。焚燒經典。而 T2039_.49.0993c15: 別造小舡。載佛牙泛於大海。任隨縁流泊。于 T2039_.49.0993c16: 時適有本朝使者至宋。聞其事。以天花茸五 T2039_.49.0993c17: 十領。紵布三百匹。行賂於押舡内史。密授佛 T2039_.49.0993c18: 牙。但流空舡。使臣等既得佛牙來奏。於是睿 T2039_.49.0993c19: 宗大喜。奉安于十員殿左掖小殿。常鑰匙殿 T2039_.49.0993c20: 門。施香燈于外。毎親幸日開殿瞻敬。至壬辰 T2039_.49.0993c21: 歳移御次。内官怱遽中忘不收撿。至丙申四 T2039_.49.0993c22: 月。御願堂神孝寺釋薀光請致敬佛牙。聞于 T2039_.49.0993c23: 上。勅令内臣遍撿宮中。無得也。時柏臺侍御 T2039_.49.0993c24: 史崔冲命薜伸急徴于諸謁者房。皆未知所 T2039_.49.0993c25: 措。内臣金承老奏曰。壬辰年移御時。紫門日 T2039_.49.0993c26: 記推看從之。記云。入内侍大府卿李白全受 T2039_.49.0993c27: 佛牙函云。召李詰之。對曰。請歸家更尋私記。 T2039_.49.0993c28: 到家撿看。得左番謁者金瑞龍佛牙函准受 T2039_.49.0993c29: 記來呈。召問瑞龍。無辭以對。又以金承老所 T2039_.49.0994a01: 奏云壬辰。至今丙申五年間。御佛堂及景靈 T2039_.49.0994a02: 殿上守等囚禁問。當依違未決。隔三日。夜中 T2039_.49.0994a03: 瑞龍家園牆裏有投擲物聲。以火撿看。乃佛 T2039_.49.0994a04: 牙函也。函本内一重沈香合。次重純金合。次 T2039_.49.0994a05: 外重白銀函。次外重瑠璃函。次外重螺鈿函。 T2039_.49.0994a06: 各幅子如之。今但瑠璃函爾。喜得之入達于 T2039_.49.0994a07: 内。有司議。金瑞龍及兩殿上守皆誅。晋陽府 T2039_.49.0994a08: 奏云。因佛事不合多傷人。皆免之。更勅十員 T2039_.49.0994a09: 殿中庭特造佛牙殿安之。令將士守之。擇吉 T2039_.49.0994a10: 日。請神孝寺上房薀光。領徒三十人。入内設 T2039_.49.0994a11: 齋敬之。其日入直承宣崔弘上將軍崔公衍李 T2039_.49.0994a12: 令長内侍茶房等侍立于殿庭。依次頂戴敬 T2039_.49.0994a13: 之。佛牙區穴間。舍利不知數。晋陽府以白銀 T2039_.49.0994a14: 合貯而安之。時主上謂臣下曰。朕自亡佛牙 T2039_.49.0994a15: 已來。自生四疑。一疑天宮七日限滿而上天 T2039_.49.0994a16: 矣。二疑國亂如此。牙既神物。且移有縁無事 T2039_.49.0994a17: 之邦矣。三疑貪財小人。盜取函幅。棄之溝壑 T2039_.49.0994a18: 矣。四疑盜取珍利。而無計自露。匿藏家中矣。 T2039_.49.0994a19: 今第四疑當之矣。乃放聲大哭。滿庭皆洒涕。 T2039_.49.0994a20: 獻壽至有煉頂燒臂者不可勝計。得此實録 T2039_.49.0994a21: 於當時内殿焚修前祇。林寺大禪師覺猷言 T2039_.49.0994a22: 親所眼見。使予録之。又至庚午出都之亂。顛 T2039_.49.0994a23: 沛之甚過於壬辰。十員殿監主禪師心鑑亡 T2039_.49.0994a24: 身佩持。獲兌於賊難。達於大内。大賞其功。 T2039_.49.0994a25: 移授名刹。今住氷山寺。是亦親聞於彼。眞興 T2039_.49.0994a26: 王代天嘉六年乙酉。陳使劉思與釋明觀。載 T2039_.49.0994a27: 送佛經論一千七百餘卷。貞觀十七年。慈藏 T2039_.49.0994a28: 法師載三藏四百餘函來。安于通度寺。興徳 T2039_.49.0994a29: 王代大和元年丁未。入學僧高麗釋丘徳齎 T2039_.49.0994b01: 佛經若干函來。王與諸寺僧徒出迎于興輪 T2039_.49.0994b02: 寺前路。大中五年。入朝使元弘齎佛經若干 T2039_.49.0994b03: 軸來。羅末普耀禪師再至呉越。載大藏經來。 T2039_.49.0994b04: 即海龍王寺開山祖也。大宋元祐甲戌。有人 T2039_.49.0994b05: 眞讃云。偉哉初祖。巍乎眞容。再至呉越。大藏 T2039_.49.0994b06: 成功。賜衘普耀。鳳詔四封。若問其徳。白月清 T2039_.49.0994b07: 風。又大定中。漢南管記彭祖逖留詩云。水雲 T2039_.49.0994b08: 蘭若住空王。況是神龍穩一場。畢竟名藍誰 T2039_.49.0994b09: 得似。初傳像教自南方。有跋云。昔普耀禪師 T2039_.49.0994b10: 始求大藏於南越。洎旋返次。海風忽起。扁舟 T2039_.49.0994b11: 出沒於波間。師即言曰。意者神龍欲留經耶。 T2039_.49.0994b12: 遂呪願乃誠兼奉龍歸焉。於是風靜波息。既 T2039_.49.0994b13: 得還國。遍賞山川。求可以安邀處。至此山忽 T2039_.49.0994b14: 見瑞雲起於山上。乃與高弟弘慶經營蓮社。 T2039_.49.0994b15: 然則像教之東漸實始乎此。漢南管記彭祖 T2039_.49.0994b16: 逖題寺。有龍王堂。頗多靈異。乃當時隨經而 T2039_.49.0994b17: 來止者也。至今猶存。又天成三年戊子。默和 T2039_.49.0994b18: 尚入唐。亦載大藏經來。本朝睿廟時。慧照國 T2039_.49.0994b19: 師奉詔西學。市遼本大藏三部而來。一本今
T2039_.49.0994b22: 來。此外方册所不載。高僧信士。往來所齎。不 T2039_.49.0994b23: 可詳記。大教東漸。洋洋乎慶矣哉。讃曰 T2039_.49.0994b24: 華月夷風尚隔烟 鹿園鶴樹二千年 T2039_.49.0994b25: 流傳海外眞堪賀 東震西乾共一天 T2039_.49.0994b26: 按此録義湘傳云。永徽初。入唐謁智儼。然據 T2039_.49.0994b27: 浮石本碑。湘武徳八年生。丱歳出家。永徽 T2039_.49.0994b28: 元年庚戌。與元曉同伴欲西入。至高麗有難 T2039_.49.0994b29: 而迴。至龍朔元年辛酉入唐。就學於智儼。總 T2039_.49.0994c01: 章元年。儼遷化。咸亨二年。湘來還新羅。長 T2039_.49.0994c02: 安二年壬寅。示滅。年七十八。則疑與儼公齋 T2039_.49.0994c03: 於宣律師處。請天宮佛牙。在辛酉至戊辰七 T2039_.49.0994c04: 八年間也。本朝高庙入江都壬辰年。疑天宮 T2039_.49.0994c05: 七日限滿者誤矣。忉利天一日夜當人間一百 T2039_.49.0994c06: 歳。且從湘公初入唐辛酉。計至高庙壬辰。 T2039_.49.0994c07: 六百九十三歳也。至庚子年。始滿七百年。而 T2039_.49.0994c08: 七日限已滿矣。至出都至元七年庚午。則七 T2039_.49.0994c09: 百三十年。若如天言。而七日後還天宮。則禪 T2039_.49.0994c10: 師心鑑出都時。佩持出獻者。恐非眞佛牙也。 T2039_.49.0994c11: 於是年春出都前。於大内集諸宗名徳。乞佛 T2039_.49.0994c12: 牙舍利。精勤雖切。而不得一枚。則七日限滿 T2039_.49.0994c13: 上天者幾矣。二十一年甲申。修補國清寺金 T2039_.49.0994c14: 塔。國主與莊穆王后幸妙覺寺。集衆慶讃 T2039_.49.0994c15: 訖。右佛牙與洛山水精念珠如意珠。君臣與 T2039_.49.0994c16: 大衆皆瞻奉頂戴。後并納金塔内。予亦預斯 T2039_.49.0994c17: 會。而親見所謂佛牙者。長三寸許。而無舍利 T2039_.49.0994c18: 焉無極記 T2039_.49.0994c19: 彌勒仙花 末尸郎 眞慈師 T2039_.49.0994c20: 第二十四眞興王。姓金氏。名彡宗一作深 T2039_.49.0994c21: 宗。以梁大同六年庚申即位。慕伯父法興 T2039_.49.0994c22: 之志。一心奉佛。廣興佛寺。度人爲僧尼。又 T2039_.49.0994c23: 天性風味多尚神仙。擇人家娘子美艶者。捧 T2039_.49.0994c24: 爲原花要。聚徒選士。教之以孝悌忠信。亦理 T2039_.49.0994c25: 國之大要也。乃取南毛娘貞娘兩花。聚徒 T2039_.49.0994c26: 三四百人。貞者嫉妬毛娘。多置酒飮毛娘。 T2039_.49.0994c27: 至醉潜舁去北川中。擧石埋殺之。其徒罔知 T2039_.49.0994c28: 去處。悲泣而散。有人知其謀者。作歌誘街巷 T2039_.49.0994c29: 小童唱於街。其徒聞之。尋得其尸於北川中。 T2039_.49.0995a01: 乃殺貞娘。於是大王下令。廢原花累年。王 T2039_.49.0995a02: 又念欲興邦國須先風月道。更下令選良家 T2039_.49.0995a03: 男子有徳行者。改爲花娘。始奉薛原郎爲國 T2039_.49.0995a04: 仙。此花郎國仙之始。故竪碑於溟州。自此使 T2039_.49.0995a05: 人悛惡更善。上敬下順。五常六藝。三師六正。
T2039_.49.0995a09: 常親近睟容。奉以□周旋。其誠懇至祷之情。
T2039_.49.0995a12: 寺行十日程。一歩一禮。及到其寺。門外有一 T2039_.49.0995a13: 郎。儂纖不爽。盼倩而迎。引入小門。邀致賓 T2039_.49.0995a14: 軒。慈且升且揖曰。郎君素昧平昔。何見待殷 T2039_.49.0995a15: 勤如此。郎曰。我亦京師人也。見師高蹈遠屆。 T2039_.49.0995a16: 勞來之爾。俄而出門。不知所在。慈謂偶爾。不 T2039_.49.0995a17: 甚異之。但與寺僧叙曩昔之夢興來之之意。 T2039_.49.0995a18: 且曰。暫寓下榻。欲待彌勒仙花何如。寺僧欺 T2039_.49.0995a19: 其情蕩然。而見其懃恪。乃曰。此去南隣有千 T2039_.49.0995a20: 山。自古賢哲寓止。多有冥感。盍歸彼居。慈從 T2039_.49.0995a21: 之至於山下。山靈變老人出迎曰。到此奚爲。 T2039_.49.0995a22: 答曰。願見彌勒仙花爾。老人曰。向於水源寺 T2039_.49.0995a23: 之門外。已見彌勒仙花。更來何求。慈聞即驚 T2039_.49.0995a24: 汗。驟還本寺。居月餘。眞智王聞之。徴詔問其 T2039_.49.0995a25: 由。曰郎既自稱京師人。聖不虚言。盍覓城中 T2039_.49.0995a26: 乎。慈奉宸旨會徒衆。遍於閭閻間物色求之。 T2039_.49.0995a27: 有一小郎子。斷紅齊具。眉彩秀麗。靈妙寺之 T2039_.49.0995a28: 東北路傍樹下婆娑而遊。慈之驚曰。此彌 T2039_.49.0995a29: 勒仙花也。乃就而問曰。郎家何在。願聞芳氏。 T2039_.49.0995b01: 郎答曰。我名未尸。兒孩時爺孃倶沒。未知何 T2039_.49.0995b02: 姓。於是肩輿而入見於王。王敬愛之。奉爲國 T2039_.49.0995b03: 仙。其和睦子弟。禮義風教。不類於常。風流耀 T2039_.49.0995b04: 世幾七年。忽亡所在。慈哀壞殆甚。然飮沐 T2039_.49.0995b05: 慈澤。昵承清化。能自悔改。精修爲道。晩年亦 T2039_.49.0995b06: 不知所終。説者曰。未與彌聲相近。尸與力形 T2039_.49.0995b07: 相類。乃託其近似而相謎也。大聖不獨感慈 T2039_.49.0995b08: 之誠欵也。抑有縁于茲土。故比比示現焉。至 T2039_.49.0995b09: 今國人稱神仙曰彌勒仙花。凡有媒係於人 T2039_.49.0995b10: 者曰未尸。皆慈氏之遺風也。路傍樹至今名
T2039_.49.0995b13: 羃地春歸無覓處 誰知頃刻上林紅 T2039_.49.0995b14: 南白月二聖 努肹夫得 怛怛朴朴 T2039_.49.0995b15: 白月山兩聖成道記云。白月山在新羅仇史
T2039_.49.0995b18: 月望前。月色滉朗中有一山嵓石。如師子隱 T2039_.49.0995b19: 映花間之影。現於池中。上命畫工圖其状。遣 T2039_.49.0995b20: 使搜訪天下。至海東見此山有大師子嵓。山
T2039_.49.0995b23: 之頂。使還奏聞。履影亦現池。帝乃異之。賜名
T2039_.49.0995c01: 法積房。剃髮爲僧。未幾聞西南雉山村法宗 T2039_.49.0995c02: 谷僧道村有古寺可以栖眞。同往大佛田小 T2039_.49.0995c03: 佛田二洞各居焉。夫得寓懷眞庵。一云壤
T2039_.49.0995c06: 外之志。未常暫廢。觀身世無常。因相謂曰。腴 T2039_.49.0995c07: 田美歳良利也。不如衣食之應念而至。自然 T2039_.49.0995c08: 得飽煖也。婦女屋宅情好也。不如蓮池花藏 T2039_.49.0995c09: 千聖共遊。鸚鵡孔雀以相娯也。況學佛當成 T2039_.49.0995c10: 佛。修眞必得眞。今我等既落彩爲僧。當脱略 T2039_.49.0995c11: 纒結。成無上道。豈宜汨沒風塵。與俗輩無異 T2039_.49.0995c12: 也。遂唾謝人間世。將隱於深谷。夜夢白毫光 T2039_.49.0995c13: 自西而至。光中垂金色臂。摩二人頂。及覺説 T2039_.49.0995c14: 夢。與之符同。皆感嘆久之。遂入白月山無
T2039_.49.0995c20: 三年己酉四月八日。聖徳王即位八年也。日 T2039_.49.0995c21: 將夕。有一娘子年幾二十。姿儀殊妙。氣襲蘭
T2039_.49.0995c24: 投庵下宿。慈悲和尚莫生嗔。朴朴曰。蘭若護 T2039_.49.0995c25: 淨爲務。非爾所取近行矣。無滯此處。閉門而
T2039_.49.0995c28: 虚同體。何有往來。但聞賢士志願深重。徳行 T2039_.49.0995c29: 高堅。將欲助成菩提□。因投一偈曰。日暮 T2039_.49.0996a01: 千山路。行行絶四隣。竹松陰轉邃。溪洞響猶 T2039_.49.0996a02: 新。乞宿非迷路。尊師欲指津。願惟從我請。且 T2039_.49.0996a03: 莫問何人。師聞之驚駭謂曰。此地非婦女相 T2039_.49.0996a04: 汚。然隨順衆生。亦菩薩行之一也。況窮谷夜 T2039_.49.0996a05: 暗。其可忽視歟。乃迎揖庵中而置之。至夜清 T2039_.49.0996a06: 心礪操。微燈半壁。謂念厭厭。及夜將艾。娘呼 T2039_.49.0996a07: 曰。予不幸適有産憂。乞和尚排備苫草。夫得 T2039_.49.0996a08: 悲矜莫逆。燭火殷勤。娘既産。又請浴。弩肹慚 T2039_.49.0996a09: 懼交心。然哀憫之情有加無已。又備盆槽。坐 T2039_.49.0996a10: 娘於中。薪湯以浴之。既而槽中之水香氣郁 T2039_.49.0996a11: 烈。變成金液。弩肹大駭。娘曰。吾師亦宜浴 T2039_.49.0996a12: 此。肹勉強從之。忽覺精神爽涼。肌膚金色。視 T2039_.49.0996a13: 其傍忽生一蓮臺。娘勸之坐。因謂曰。我是觀 T2039_.49.0996a14: 音菩薩。來助大師。成大菩提矣。言訖不現。朴 T2039_.49.0996a15: 朴謂肹今夜必染戒。將歸听之。既至。見肹坐 T2039_.49.0996a16: 蓮臺。作彌勒尊像放光明。身彩檀金。不覺扣 T2039_.49.0996a17: 頭而禮曰。何得至於此乎。肹具叙其由。朴朴 T2039_.49.0996a18: 嘆曰。我乃障重。幸逢大聖而反不遇。大徳至 T2039_.49.0996a19: 仁。先吾著鞭。願無忘昔日之契。事須同攝。肹 T2039_.49.0996a20: 曰。槽有餘液。但可浴之。朴朴又浴。亦如前成 T2039_.49.0996a21: 無量壽。二尊相對儼然。山下村民聞之。競來 T2039_.49.0996a22: 瞻仰。嘆曰。希有希有。二聖爲説法要。全身躡 T2039_.49.0996a23: 雲而逝。天寶十四年乙未。新羅景徳王即位
T2039_.49.0996a28: 陀像安於講堂。餘液不足。塗浴未周。故彌陀 T2039_.49.0996a29: 像亦有斑駁之痕。額曰。現身成道無量壽殿。 T2039_.49.0996b01: 議曰。娘可謂應以婦女身攝化者也。華嚴經 T2039_.49.0996b02: 摩耶夫人善知識。寄十一地生佛如幻解脱 T2039_.49.0996b03: 門。今娘之桷産微意在此。觀其投詞。哀婉可 T2039_.49.0996b04: 愛。宛轉有天仙之趣。嗚呼。使娘婆不解隨順 T2039_.49.0996b05: 衆生語言陀羅尼。其能若是乎。其末聯宜云。 T2039_.49.0996b06: 清風一榻莫予嗔。然不爾云者。蓋不欲同乎 T2039_.49.0996b07: 流俗語爾。讃曰 T2039_.49.0996b08: 滴翠嵓前剥啄聲 何人日暮扣雲扃 T2039_.49.0996b09: 南庵且近宜尋去 莫踏蒼苔汚我庭 T2039_.49.0996b10: 右北庵 T2039_.49.0996b11: 谷暗何歸已暝煙 南窓有蕈且流連 T2039_.49.0996b12: 夜闌百八深深轉 只恐成喧惱客眠 T2039_.49.0996b13: 右南庵 T2039_.49.0996b14: 十里松陰一徑迷 訪僧來試夜招提 T2039_.49.0996b15: 三槽浴罷天將曉 生下雙兒擲向西 T2039_.49.0996b16: 右聖娘 T2039_.49.0996b17: 芬皇寺千手大悲 盲兒得眼 T2039_.49.0996b18: 景徳王代。漢岐里女希明之兒。生五稔而忽 T2039_.49.0996b19: 盲。一日其母抱兒詣芬皇寺。左殿北壁畫千 T2039_.49.0996b20: 手大悲。前令兒作歌祷之。遂得明。其詞曰 T2039_.49.0996b21: 膝肹古召㫆 二尸掌音毛乎支内良 T2039_.49.0996b22: 千手觀音叱前良中 祈以支白屋尸置 T2039_.49.0996b23: 内乎多 千隱手 叱千隱目肹 一等 T2039_.49.0996b24: 下叱放一等肹除惡支 二于萬隱吾羅 T2039_.49.0996b25: 一等沙隱賜以古只内乎叱等邪阿邪也 T2039_.49.0996b26: 吾良遺知支賜尸等焉 放冬矣用屋 T2039_.49.0996b27: 尸慈悲也根古 T2039_.49.0996b28: 讃曰 T2039_.49.0996b29: 竹馬葱笙戲陌塵 一朝雙碧失瞳人 T2039_.49.0996c01: 不因大士迴慈眼 虚度楊花幾社春 T2039_.49.0996c02: 洛山二大聖 觀音 正趣 調信 T2039_.49.0996c03: 昔義湘法師始自唐來還。聞大悲眞身住此 T2039_.49.0996c04: 海邊崛内。故因名洛山。蓋西域寶陀洛伽山。 T2039_.49.0996c05: 此云小白華。乃白衣大士眞身住處。故借此 T2039_.49.0996c06: 名之。齋戒七日。浮座具晨水上。龍天八部侍 T2039_.49.0996c07: 從引入崛内參禮。空中出水精念珠一貫給 T2039_.49.0996c08: 之。湘領受而退。東海龍亦獻如意寶珠一顆。 T2039_.49.0996c09: 師捧出。更齋七日。乃見眞容。謂曰。於座上山 T2039_.49.0996c10: 頂雙竹湧生。當其地作殿宜矣。師聞之出崛。 T2039_.49.0996c11: 果有竹從地湧出。乃作金堂塑像而安之。圓 T2039_.49.0996c12: 容麗質。儼若天生。其竹還沒。方知正是眞身 T2039_.49.0996c13: 住也。因名其寺曰洛山。師以所受二珠鎭安 T2039_.49.0996c14: 于聖殿而去。後有元曉法師。繼踵而來。欲求 T2039_.49.0996c15: 瞻禮初至於南郊水田中。有一白衣女人刈 T2039_.49.0996c16: 稻。師戲請其禾。女以稻荒戲答之。又行至橋 T2039_.49.0996c17: 下。一女洗月水帛。師乞水。女酌其穢水獻 T2039_.49.0996c18: 之。師覆棄之。更酌川水而飮之。時野中松上 T2039_.49.0996c19: 有一青鳥。呼曰休醍□和尚。忽隱不現。其 T2039_.49.0996c20: 松下有一隻脱鞋。師既到寺。觀音座下又有 T2039_.49.0996c21: 前所見脱鞋一隻。方知前所遇聖女乃眞身 T2039_.49.0996c22: 也。故時人謂之觀音松。師欲入聖崛更覩眞 T2039_.49.0996c23: 容。風浪大作。不得入而去。後有崛山祖師梵 T2039_.49.0996c24: 日。太和年中入唐。到明州開國寺。有一沙 T2039_.49.0996c25: 彌截左耳在衆僧之末。與師言曰。吾亦郷人 T2039_.49.0996c26: 也。家在溟州界翼嶺縣徳耆坊。師他日若還 T2039_.49.0996c27: 本國。須成吾舍。既而遍遊叢席。得法於鹽
T2039_.49.0997a01: 夢昔所見沙彌到窓下。曰。昔在明州開國寺。 T2039_.49.0997a02: 與師有約。既蒙見諾。何其晩也。祖師驚覺。押 T2039_.49.0997a03: 數十人到翼嶺境。尋訪其居。有一女居洛山 T2039_.49.0997a04: 下村。問其名。曰徳耆。女有一子年才八歳。常 T2039_.49.0997a05: 出遊於村南石橋邊。告其母曰。吾所與遊者 T2039_.49.0997a06: 有金色童子。母以告于師。師驚喜。與其子尋 T2039_.49.0997a07: 所遊橋下。水中有一石佛。舁出之。截左耳類 T2039_.49.0997a08: 前所見沙彌。即正趣菩薩之像也。乃作簡子 T2039_.49.0997a09: 卜其營構之地。洛山上方吉。乃作殿三間安
T2039_.49.0997a13: 西山大兵已來。癸丑甲寅年間。二聖眞容及 T2039_.49.0997a14: 二寶珠移入襄州城。大兵來攻甚急。城將陷。
T2039_.49.0997a17: 不免死於兵。則二寶珠終不現於人間。人無 T2039_.49.0997a18: 知者。我若不死。當奉二寶獻於邦家矣。甲寅 T2039_.49.0997a19: 十月二十二日城陷。阿行不免。而乞升獲免。 T2039_.49.0997a20: 兵退後掘出。納於溟州道監倉使。時郎中李 T2039_.49.0997a21: 祿綏爲監倉使。受而藏於監倉庫中。毎交代 T2039_.49.0997a22: 傳受。至戊午十一月。本業老宿祇林寺住持 T2039_.49.0997a23: 大禪師覺猷奏曰。洛山二珠。國家神寶。襄州 T2039_.49.0997a24: 城陷時。寺奴乞升埋於城中。兵退取納監倉 T2039_.49.0997a25: 使。藏在溟州營庫中。今溟州城殆不能守矣。 T2039_.49.0997a26: 宜輸安御府。主上允可。發夜別抄十人率乞 T2039_.49.0997a27: 升。取於溟州城。入安於内府。時使介十人各 T2039_.49.0997a28: 賜銀一斤米五石。昔新羅爲京師時。有世逵
T2039_.49.0997b03: 金昕公之女。惑之深。屡就洛山大悲前。潜祈 T2039_.49.0997b04: 得幸。方數年間。其女已有配矣。又往堂前怨 T2039_.49.0997b05: 大悲之不遂已。哀泣至日暮。情思倦憊。俄成 T2039_.49.0997b06: 假寢。忽夢金氏娘容豫入門。粲然啓齒而謂 T2039_.49.0997b07: 曰。兒早識上人於半面。心乎愛矣。未甞暫忘。 T2039_.49.0997b08: 迫於父母之命強從人矣。今願爲同穴之友 T2039_.49.0997b09: 故來爾信乃顛喜。同歸郷里。計活四十餘霜。 T2039_.49.0997b10: 有兒息五。家徒四壁。藜藿不給。遂乃落魄扶 T2039_.49.0997b11: 携。糊其口於四方。如是十年。周流草野。懸 T2039_.49.0997b12: 鶉百結。亦不掩體。適過溟州蟹縣嶺。大兒十 T2039_.49.0997b13: 五歳者忽餧死。痛哭收瘞於道。從率餘四口
T2039_.49.0997b16: 痛臥於前。父母爲之歔欷。泣下數行。婦乃□ T2039_.49.0997b17: 澁拭涕。倉卒而語曰。予之始遇君也。色美年 T2039_.49.0997b18: 芳。衣袴稠鮮。一味之甘得與子分之。數尺之 T2039_.49.0997b19: 煖得與子共之。出處五十年。情鍾莫逆。恩愛 T2039_.49.0997b20: 綢繆。可謂厚縁。自比年來。衰病歳益深。飢寒 T2039_.49.0997b21: 日益迫。傍舍壷漿人不容乞。千門之恥重似 T2039_.49.0997b22: 丘山。兒寒兒飢未遑計補。何暇有愛悦夫婦 T2039_.49.0997b23: 之心哉。紅顏巧笑草上之露。約束芝蘭柳絮 T2039_.49.0997b24: 飄風。君有我而爲累。我爲君而足憂。細思昔 T2039_.49.0997b25: 日之歡。適爲憂患所階。君乎予乎奚至此極。 T2039_.49.0997b26: 與其衆鳥之同餧。焉知隻鸞之有鏡。寒棄炎 T2039_.49.0997b27: 附。情所不堪。然而行止非人。離合有數。請 T2039_.49.0997b28: 從此辭。信聞之大喜。各分二兒將行。女曰。我 T2039_.49.0997b29: 向桑梓。君其南矣。方分手進途而形開。殘燈 T2039_.49.0997c01: 翳吐。夜色將闌。及旦鬢髮盡白。惘惘然殊無 T2039_.49.0997c02: 人世意。已厭勞生。如飫百年辛苦。貪染之心 T2039_.49.0997c03: 洒然氷釋。於是慚對聖容。懺滌無已。歸撥蟹 T2039_.49.0997c04: 峴所埋兒塚。乃石彌勒也。潅洗奉安于隣寺。 T2039_.49.0997c05: 還京師免莊任。傾私財創淨土寺。懃修白業。 T2039_.49.0997c06: 後莫知所終。議曰。讀此傳。掩卷而追繹之。何 T2039_.49.0997c07: 必信師之夢爲然。今皆知其人世之爲樂。欣 T2039_.49.0997c08: 欣然役役然。特未覺爾。乃作詞誡之曰 T2039_.49.0997c09: 快適須臾意已閑 暗從愁裏老倉顏 T2039_.49.0997c10: 不須更待黄梁熟 方悟勞生一夢間 T2039_.49.0997c11: 治身臧否先誠意 鰥夢蛾眉賊夢藏 T2039_.49.0997c12: 何似秋來清夜夢 時時合眼到清涼 T2039_.49.0997c13: 魚山佛彰 T2039_.49.0997c14: 古記云。萬魚寺者古之慈成山也。又阿耶斯
T2039_.49.0997c17: 有毒龍焉。萬魚山有五羅刹女。往來交通。故 T2039_.49.0997c18: 時降電雨。歴四年五穀不成。王呪禁不能。稽 T2039_.49.0997c19: 首請佛説法。然後羅刹女受五戒而無後害。 T2039_.49.0997c20: 故東海魚龍遂化爲滿洞之石。各有鍾磬之
T2039_.49.0997c23: 異之迹。與北天竺訶羅國佛影事符同者有 T2039_.49.0997c24: 三。一。山之側近地梁州界玉池。亦毒龍所蟄 T2039_.49.0997c25: 是也。二。有時自江邊雲氣始出來到山頂。雲 T2039_.49.0997c26: 中有音樂之聲是也。三。影之西北有盤石。常 T2039_.49.0997c27: 貯水不絶云。是佛浣濯袈裟之地是也。已上 T2039_.49.0997c28: 皆寶林之説。今親來瞻禮。亦乃彰彰可敬信 T2039_.49.0997c29: 者有二。洞中之石凡三分之二皆有金玉之 T2039_.49.0998a01: 聲是一也。遠瞻即現。近瞻不見。或見覔等 T2039_.49.0998a02: 是一也。北天之文具録於後。可函觀佛三昧 T2039_.49.0998a03: 經第七卷云。佛到耶乾訶羅國。古仙山薝葍 T2039_.49.0998a04: 花林毒龍之側。青蓮花泉北羅刹穴中阿那 T2039_.49.0998a05: 斯山南。爾時彼穴有五羅刹。化作女龍。與毒 T2039_.49.0998a06: 龍通。龍復降雹。羅刹亂行。飢饉疾疫已。歴四 T2039_.49.0998a07: 年。王驚懼。祷祀神祇。於事無益。時有梵志。 T2039_.49.0998a08: 聰明多智。白言大王伽毘羅淨飯王子。今者 T2039_.49.0998a09: 成道號釋迦。文王聞是語。心大歡喜。向佛 T2039_.49.0998a10: 作禮曰。云何今日佛日已興。不到此國。爾時 T2039_.49.0998a11: 如來勅諸比丘。得六神通者。隨從佛後。受那 T2039_.49.0998a12: 乾訶羅王弗婆浮提請。爾時世尊頂放光明。 T2039_.49.0998a13: 化作一萬諸天化佛。往至彼國。爾時龍王及 T2039_.49.0998a14: 羅刹女五體投地求佛受戒。佛即爲説三歸 T2039_.49.0998a15: 五戒。龍王聞已長跪合掌。勸請世尊常住此 T2039_.49.0998a16: 間。佛若不在。我有惡心。無由得成阿耨菩 T2039_.49.0998a17: 提。時梵天王復來禮佛。請婆伽婆爲未來世 T2039_.49.0998a18: 諸衆生。故莫獨偏爲此一小龍。百千梵王皆 T2039_.49.0998a19: 作是請。時龍王出七寶臺。奉上如來。佛告龍 T2039_.49.0998a20: 王。不須此臺。汝今但以羅刹石窟持以施我。
T2039_.49.0998a23: 鏡。人見面像。諸龍皆現。佛在石内。映現於 T2039_.49.0998a24: 外。爾時諸龍合掌歡喜不出其地。常見佛日。 T2039_.49.0998a25: 爾時世尊結伽趺坐在石壁内。衆生見時。遠 T2039_.49.0998a26: 望即現。近則不現諸天供養佛影。影亦説法。 T2039_.49.0998a27: 又云。佛蹵嵓石之上。即便成金玉之聲。高僧 T2039_.49.0998a28: 傳云。惠遠聞天竺有佛影。昔爲龍所留之影。 T2039_.49.0998a29: 在北天竺月支國那竭呵城南古仙人石室
T2039_.49.0998b03: 中去十餘歩觀之。如佛眞形。光明炳著。轉 T2039_.49.0998b04: 遠轉微。諸國王遣工摹寫。莫能髣髴。國人 T2039_.49.0998b05: 傳云。賢劫千佛皆當於此留影。影之西百歩
T2039_.49.0998b08: 士。供王乳酪。進奏失宜。既獲譴嘖。心懷恚 T2039_.49.0998b09: 恨。以金錢買花供養。授記宰堵婆。願爲惡龍 T2039_.49.0998b10: 破國害王。特趣石壁投身而死。遂居此窟爲 T2039_.49.0998b11: 大龍王。適起惡心。如來鑑此。變神通力而來 T2039_.49.0998b12: 至此。龍見佛毒心遂止。受不殺戒。因請如來 T2039_.49.0998b13: 常居此穴。常受我供。佛言。吾將寂滅爲汝留 T2039_.49.0998b14: 影。汝若毒忿。常觀吾影。毒心當止。攝神獨 T2039_.49.0998b15: 入石室。遠望即現。近則不現。又令石上蹵爲
T2039_.49.0998b18: 北天事而稱之爾 T2039_.49.0998b19: 臺山五萬眞身 T2039_.49.0998b20: 按山中古傳。此山之署名眞聖住處者。始自 T2039_.49.0998b21: 慈藏法師。初法師欲見中國五臺山文殊眞
T2039_.49.0998b24: 日。忽夢大聖授四句偈。覺而記憶。然皆梵語。 T2039_.49.0998b25: 罔然不解。明旦忽有一僧。將緋羅金點袈裟 T2039_.49.0998b26: 一領。佛鉢一具。佛頭骨一片到于師邊。問何 T2039_.49.0998b27: 以無聊。師答以夢所受四句偈。梵音不解爲 T2039_.49.0998b28: 辭。僧譯之云。呵囉婆佐曩。是曰了知一切法。 T2039_.49.0998b29: 達㘑陊佉。云自性無所有。曩伽呬伽曩。云 T2039_.49.0998c01: 如是解法性。達㘑盧舍那。云即見盧舍那。仍 T2039_.49.0998c02: 以所將袈裟等付而囑云。此是本師釋迦尊 T2039_.49.0998c03: 之道具也。汝善護持。又曰。汝本國艮方溟州 T2039_.49.0998c04: 界有五臺山。一萬文殊常住在彼。汝往見之。 T2039_.49.0998c05: 言已不現。遍尋靈迹。將欲東還*太和池龍 T2039_.49.0998c06: 現身請齋供養七日。乃告云。昔之傳偈老僧 T2039_.49.0998c07: 是眞文殊也。亦有叮囑創寺立塔之事。具載 T2039_.49.0998c08: 別傳。師以貞觀十七年來到此山。欲覩眞身 T2039_.49.0998c09: 三日。晦陰不果而還。復住元寧寺。乃見文殊。
T2039_.49.0998c12: 庵而居。信義既卒。庵亦久廢。有水多寺長老。 T2039_.49.0998c13: 有縁重創而居。今月精寺是也。藏師之返新
T2039_.49.0998c20: 烏坪。遊覽累日。忽一夕昆弟二人密約方外
T2039_.49.0998c26: 寶川庵向東。北行六百餘歩。北臺南麓亦有 T2039_.49.0998c27: 青蓮開處。弟太子孝明又結庵而止。各懃修 T2039_.49.0998c28: 業。一日同上五峰瞻禮。次東臺滿月山。有一 T2039_.49.0999a01: 萬觀音眞身。現在南臺麒麟山。八大菩薩爲 T2039_.49.0999a02: 首一萬地藏。西臺長嶺山無量壽如來爲首 T2039_.49.0999a03: 一萬大勢至。北臺象王山釋迦如來爲首五百 T2039_.49.0999a04: 大阿羅漢。中臺風廬山亦名地盧山。毘盧遮 T2039_.49.0999a05: 那爲首一萬文殊。如是五萬眞身一一瞻禮。 T2039_.49.0999a06: 毎日寅朝。文殊大聖到眞如院今上院。變現 T2039_.49.0999a07: 三十六種形。或時現佛面形。或作寶珠形。或 T2039_.49.0999a08: 作佛眼形。或作佛手形。或作寶塔形。或萬佛 T2039_.49.0999a09: 頭形。或作萬燈形。或作金橋形。或作金鼓形。 T2039_.49.0999a10: 或作金鐘形。或作神通形。或作金樓形。或作 T2039_.49.0999a11: 金輪形。或作金剛柝形。或作金甕形。或作 T2039_.49.0999a12: 金鈿形。或五色光明形。或五色圓光形。或吉 T2039_.49.0999a13: 祥草形。或青蓮花形。或作金田形。或作銀田 T2039_.49.0999a14: 形。或作佛足形。或作雷電形。或來湧出形。或 T2039_.49.0999a15: 地神湧出形。或作金鳳形。或作金烏形。或馬 T2039_.49.0999a16: 産師子形。或雞産鳳形。或作青龍形。或作白 T2039_.49.0999a17: 象形。或作鵲鳥形。或牛産師子形。或作遊猪 T2039_.49.0999a18: 形。或作青蛇形。二公毎汲洞中水煎茶獻供。 T2039_.49.0999a19: 至夜各庵修道。淨神王之弟與王爭位。國人 T2039_.49.0999a20: 廢之。遣將軍四人到山迎之。先到孝明庵前 T2039_.49.0999a21: 呼萬歳。時有五色雲七日垂覆。國人尋雲而 T2039_.49.0999a22: 畢至。排列鹵薄。將邀兩太子而歸。寶川哭泣
T2039_.49.0999a27: 文殊大聖安于堂中。以知識靈卞等五員長 T2039_.49.0999a28: 轉華嚴經。仍結爲華嚴社。長年供費。毎歳春 T2039_.49.0999a29: 秋。各給近山州縣倉租一百石淨油一石。以 T2039_.49.0999b01: 爲恒規。自院西行六千歩至牟尼岾。古伊峴 T2039_.49.0999b02: 外柴地十五結。栗枝六結。坐位二結。創置莊 T2039_.49.0999b03: 舍焉。寶川常汲服其靈洞之水。故晩年肉身 T2039_.49.0999b04: 飛空。到流沙江外蔚珍國掌天窟停止。誦隨 T2039_.49.0999b05: 求陀羅尼。日夕爲課。窟神現身白云。我爲窟 T2039_.49.0999b06: 神已二千年。今日始聞隨求眞詮。請受菩薩 T2039_.49.0999b07: 戒。既受已。翌日窟亦無形。寶川驚異。留二十 T2039_.49.0999b08: 日乃還五臺山神聖窟。又修眞五十年。忉利 T2039_.49.0999b09: 天神三時聽法。淨居天衆烹茶供獻。四十聖 T2039_.49.0999b10: 騰空十尺。常時護衞。所持錫杖一日三時作 T2039_.49.0999b11: 聲。遶房三匝。用此爲鐘磬。隨時修業。文殊或 T2039_.49.0999b12: 潅水寶川頂。爲授成道記。川將圓寂之日。 T2039_.49.0999b13: 留記後來山中所行輔益邦家之事云。此山 T2039_.49.0999b14: 乃白頭山之大脈。各臺眞身常住之地。青在 T2039_.49.0999b15: 東臺。北角下北臺南麓之末。宜置觀音房。安 T2039_.49.0999b16: 圓像觀音及青地畫一萬觀音像。福田五員 T2039_.49.0999b17: 晝讀八卷金經仁王般若千手呪。夜念觀音 T2039_.49.0999b18: 禮懺。稱名圓通社。赤任南臺。南面置地藏房。 T2039_.49.0999b19: 安圓像地藏及赤地畫八大菩薩爲首一萬地 T2039_.49.0999b20: 藏像。福田五員晝讀地藏經金剛般若。夜□ T2039_.49.0999b21: 察禮懺。稱金剛社。曰方西臺。南面置彌陀房。 T2039_.49.0999b22: 安圓像無量壽及白地畫無量壽如來爲首一 T2039_.49.0999b23: 萬大勢至。福田五員晝讀八卷法華。夜念彌 T2039_.49.0999b24: 陀禮懺。稱水精社。黒地北臺。南面置羅漢堂。 T2039_.49.0999b25: 安圓像釋迦及黒地畫釋迦如來爲首五百羅 T2039_.49.0999b26: 漢。福田五員晝讀佛報恩經涅槃經。夜念涅 T2039_.49.0999b27: 槃禮懺。稱白蓮社。黄處中臺。直□院中安 T2039_.49.0999b28: 泥像文殊不動。後壁安黄地畫毘盧遮那爲 T2039_.49.0999b29: 首三十六化形。福田五員晝讀華嚴經六百 T2039_.49.0999c01: 般若。夜念文殊禮懺。稱華嚴社。寶川庵改創 T2039_.49.0999c02: 華藏寺。安圓像毘盧遮那三尊及大藏經。福 T2039_.49.0999c03: 田五員長門藏經。夜念華嚴神衆。毎年設華 T2039_.49.0999c04: 嚴會一百日。稱名法輪社。以此華藏寺爲五 T2039_.49.0999c05: 臺社之本寺。堅固護持。命淨行福田鎭長香 T2039_.49.0999c06: 火。則國王千秋。人民安泰。文虎和平。百穀 T2039_.49.0999c07: 豐穰矣。又加排下院文殊岬寺爲社之都會。 T2039_.49.0999c08: 福田七員晝夜常行華嚴神衆禮懺。上件三 T2039_.49.0999c09: 十七員齋料衣費。以河西府道内八州之税 T2039_.49.0999c10: 充爲四事之資。代代君王不忘遵行幸矣
T2039_.49.0999c13: 西府世獻角干家一宿。翌日踰大嶺。各領一 T2039_.49.0999c14: 千人到省烏坪。累日遊翫。太和元年八月五 T2039_.49.0999c15: 日。兄弟同隱入五臺山。徒中侍衞等推覓不 T2039_.49.0999c16: 得。並皆還國。兄太干見中臺南下眞如院𪤏 T2039_.49.0999c17: 下山末青蓮開。其地結草菴而居。弟孝明見 T2039_.49.0999c18: 北臺南山末青蓮開。亦結草菴而居。兄弟二 T2039_.49.0999c19: 人禮念修行。五臺進敬禮拜。青在東臺滿月 T2039_.49.0999c20: 形山。觀音眞身一萬常住。南臺麒麟山。八大 T2039_.49.0999c21: 菩薩爲首。一萬地藏菩薩常住。白方西臺長 T2039_.49.0999c22: 嶺山。無量壽如來爲首。一萬大勢至菩薩常 T2039_.49.0999c23: 住。黒掌北臺相王山。釋迦如來爲首。五百大 T2039_.49.0999c24: 阿羅漢常住。黄處中臺風爐山。亦名地爐山。 T2039_.49.0999c25: 毘盧遮那爲首。一萬文殊常住。眞如院地。文
T2039_.49.0999c28: 養。一萬眞身文殊。淨神太子弟副君在新羅。 T2039_.49.0999c29: 爭位誅滅。國人遣將軍四人到五臺山。孝明 T2039_.49.1000a01: 太子前呼萬歳。即是有五色雲。自五臺至新 T2039_.49.1000a02: 羅。七日七夜浮光。國人尋光到五臺。欲陪兩 T2039_.49.1000a03: 太子還國。寶叱徒太子涕泣不歸。陪孝明太 T2039_.49.1000a04: 子歸國即位。在位二十餘年。神龍元年三月
T2039_.49.1000a11: 按寺中所傳古記云。慈藏法師初至五臺。欲 T2039_.49.1000a12: 覩眞身。於山麓結茅而住。七日不見。而到妙 T2039_.49.1000a13: 梵山創淨岩寺。後有信孝居士者。或云幼童 T2039_.49.1000a14: 菩薩化身。家在公州。養母純孝。母非肉不食。 T2039_.49.1000a15: 士求肉出行山野。路見五鶴射之。有一鶴落 T2039_.49.1000a16: 一羽而去。士執其羽遮眼而見。人人皆是畜 T2039_.49.1000a17: 生。故不得肉。而因割股肉進母。後乃出家。捨 T2039_.49.1000a18: 其家爲寺。今爲孝家院。士自慶州界至河率。 T2039_.49.1000a19: 見人多是人形。因有居住之志。路見老婦。問 T2039_.49.1000a20: 可住處。婦云。過西嶺有北向洞可居。言訖不 T2039_.49.1000a21: 現。士知觀音所教。因過省烏坪。入慈藏初結 T2039_.49.1000a22: 茅處而住。俄有五比丘到云。汝之持來袈裟 T2039_.49.1000a23: 一幅今何在。士茫然。比丘云。汝所執見人之 T2039_.49.1000a24: 羽是也。士乃出呈。比丘乃置羽於袈裟闕幅 T2039_.49.1000a25: 中相合。而非羽乃布也。士與五比丘別。後方 T2039_.49.1000a26: 知是五類聖衆化身也。此月精寺慈藏初結 T2039_.49.1000a27: 茅。次信孝居士來住。次梵日門人信義頭陀 T2039_.49.1000a28: 來。創庵而住。後有水多寺長老有縁來住。而 T2039_.49.1000a29: 漸成大寺。寺之五類聖衆九層石塔皆聖跡 T2039_.49.1000b01: 也。相地者云。國内名山。此地最勝。佛法長興 T2039_.49.1000b02: 之處云云
T2039_.49.1000b05: 火光後記云。開元七年己未二月十五日。重 T2039_.49.1000b06: 阿喰全忘誠。爲亡考仁章一吉于亡妃觀肖里 T2039_.49.1000b07: 夫人。敬造甘山寺一所石彌勒一躯。兼及愷 T2039_.49.1000b08: 元伊飡第懇誠小舍玄度師。姉古巴里。前妻 T2039_.49.1000b09: 古老里。後妻阿好里。兼庶族及漠一吉喰一 T2039_.49.1000b10: 幢薩喰聰敏。亡舍妹首肹置等。同營茲善。亡
T2039_.49.1000b14: 七。致仕閑居。奉爲國主大王。伊喰愷元。亡考 T2039_.49.1000b15: 仁章一吉于。亡妃亡弟。小舍梁誠。沙門玄度。 T2039_.49.1000b16: 亡妻古路里。亡妹古巴里。又爲妻阿好里等。 T2039_.49.1000b17: 捨甘山莊田建伽藍。仍造石彌陀一躯。奉爲 T2039_.49.1000b18: 亡考仁章一吉于古人。成之東海攸反邊散也
T2039_.49.1000b22: 東都南山之南。有一峰屹起。俗云高位山。山 T2039_.49.1000b23: 之陽有寺。俚云高寺。或云天龍寺。討論三 T2039_.49.1000b24: 韓集云。雞林土内有客水二條。逆水一條。其 T2039_.49.1000b25: 逆水客水二源。不鎭天災。則致天龍覆沒之 T2039_.49.1000b26: 災。俗傳云逆水者州之南馬等烏村南流川 T2039_.49.1000b27: 是。又是水之源致大龍寺。中國來使樂鵬龜 T2039_.49.1000b28: 來見云。破此寺則國亡無日矣。又相傳云。昔 T2039_.49.1000b29: 有檀越。有二女曰天 T2039_.49.1000c01: 女龍女二親爲二女創寺因名之。境地異常。 T2039_.49.1000c02: 助道之場。羅季殘破久矣。衆生寺大聖所乳 T2039_.49.1000c03: 崔殷諴之子承魯。魯生肅。肅生侍中齊顏。顏 T2039_.49.1000c04: 乃重修起廢。仍置釋迦萬日道場。受朝旨。兼 T2039_.49.1000c05: 有信書願文留于寺。既卒。爲護伽藍神。頗著 T2039_.49.1000c06: 靈異。其信書略曰。檀越内史侍郎同内史門 T2039_.49.1000c07: 下平章事柱國崔齊顏状。東京高位山天龍 T2039_.49.1000c08: 寺殘破有年。弟子特爲聖壽天長民國安泰 T2039_.49.1000c09: 之願。殿堂廊閣。房舍厨庫。已來興構畢。具石 T2039_.49.1000c10: 造泥塑佛聖數躯。開置釋迦萬日道場。既爲 T2039_.49.1000c11: 國修營。官家差定主人亦可。然當遆換交代 T2039_.49.1000c12: 之時。道場僧衆不得安心。側觀入田稠足寺 T2039_.49.1000c13: 院。如公山地藏寺入田二百結。毘瑟山道仙 T2039_.49.1000c14: 寺入田二十結。西京之四面山寺各田二十 T2039_.49.1000c15: 結。例皆勿論有職無職。須擇戒備才高者。社 T2039_.49.1000c16: 中衆望。連次住持。焚修以爲恒規。弟子聞風 T2039_.49.1000c17: 而悦。我此天龍寺亦於社衆之中。擇選才徳 T2039_.49.1000c18: 雙高大徳。兼爲棟梁。差主人鎭長焚修。具録 T2039_.49.1000c19: 文字。付在剛司。自當時主人爲始。受留守官 T2039_.49.1000c20: 文通。示道場諸衆。各宜知悉。重煕九年六月 T2039_.49.1000c21: 日。具如前署。按重煕乃契丹興宗年號。本 T2039_.49.1000c22: 朝靖宗七年庚辰歳也 T2039_.49.1000c23: 鍪藏寺彌陀殿 T2039_.49.1000c24: 京城之東北二十許里。暗谷村之北有鍪藏 T2039_.49.1000c25: 寺。第三十八元聖大王之考大阿干孝讓追 T2039_.49.1000c26: 封明徳大王之爲叔父波珍喰追崇所創也。 T2039_.49.1000c27: 幽谷逈絶。類似削成。所寄冥奧。自生虚白。 T2039_.49.1000c28: 乃息心樂道之靈境也。寺之上方有彌陀古
T2039_.49.1001a01: 心。思所以幽賛明休光啓玄福者。聞西方有 T2039_.49.1001a02: 大聖曰彌陀。至誠歸仰。則善救來迎。是眞語 T2039_.49.1001a03: 者豈欺我哉。乃捨六衣之盛服。罄九府之貯 T2039_.49.1001a04: 財。召彼名匠。教造彌陀像一躯。并造神衆以 T2039_.49.1001a05: 安之。先是寺有一老僧。忽夢眞人坐於石塔 T2039_.49.1001a06: 東南岡上。向西爲大衆説法。意謂此地必佛 T2039_.49.1001a07: 法所住也。心祕之而不向人説。嵓石巉。流 T2039_.49.1001a08: 澗邀迅。匠者不顧。咸謂不臧。及乎辟地。乃得 T2039_.49.1001a09: 平坦之地。可容堂宇。宛似神基。見者莫不愕 T2039_.49.1001a10: 然稱善。近古來殿則壞圮。而寺獨在。諺傳太 T2039_.49.1001a11: 宗統三已後。藏兵鍪於谷中。因名之 T2039_.49.1001a12: 伯嚴寺石塔舍利 T2039_.49.1001a13: 開運三年丙午十月二十九日。康州界任道
T2039_.49.1001a16: 古傳云。前代新羅時。北宅廳基捨置茲寺。中 T2039_.49.1001a17: 間久廢。去丙寅年中沙木谷陽孚和尚改造住 T2039_.49.1001a18: 持。丁丑遷化。乙酉年曦陽山競讓和尚來住 T2039_.49.1001a19: 十年。又乙未年却返犧陽。時有神卓和尚。自 T2039_.49.1001a20: 南原白嵓薮來入當院。如法住持。又咸雍元 T2039_.49.1001a21: 年十一月。當院住持得奧微定大師釋秀立。 T2039_.49.1001a22: 定院中常規十條。新竪五層石塔。眞身佛舍 T2039_.49.1001a23: 利四十二粒安邀。以私財立寶。追年供養條。 T2039_.49.1001a24: 第一當寺護法敬僧嚴欣伯欣兩明神及近岳
T2039_.49.1001a27: 靈鷲寺 T2039_.49.1001a28: 寺中古記云。新羅眞骨第二十一主神文王
T2039_.49.1001b03: 杳無蹤迹。聞鈴尋之。到屈井縣官北井邊。鷹 T2039_.49.1001b04: 坐樹上。雉在井中。水渾血色。雉開西翅。抱 T2039_.49.1001b05: 二雛焉。鷹亦如相。惻隱而不敢攫也。公見之 T2039_.49.1001b06: 惻然有感。卜問此地云可立寺。歸京啓於王。 T2039_.49.1001b07: 移其縣於他所。創寺於其地。名靈鷲寺焉 T2039_.49.1001b08: 有徳寺 T2039_.49.1001b09: 新羅大夫角于崔有徳。捨私第爲寺。以有徳 T2039_.49.1001b10: 名之。遠孫三韓功臣崔彦撝。掛安眞影。仍有 T2039_.49.1001b11: 碑云 T2039_.49.1001b12: 五臺山文殊寺石塔記 T2039_.49.1001b13: 庭畔石塔。蓋新羅人所立也。制作雖淳朴不 T2039_.49.1001b14: 巧。然甚有靈響。不可勝記。就中一事。聞之 T2039_.49.1001b15: 諸古老云昔。連谷縣人具舡海而漁。忽見 T2039_.49.1001b16: 一塔隨逐舟揖。凡水族見其影者。皆逆散四 T2039_.49.1001b17: 走。以故漁人一無所得。不堪憤恚。尋影而至。 T2039_.49.1001b18: 蓋此塔也。於是共揮斤斫之而去。今此塔四 T2039_.49.1001b19: 隅皆缺者以此也。予驚嘆無已。然怪其置塔 T2039_.49.1001b20: 稍東而不中。於是仰見一懸板云。比丘處玄 T2039_.49.1001b21: 曾住此院。輒移置庭心。則二十餘年間寂無 T2039_.49.1001b22: 靈應。及日者求基抵此。乃嘆曰。是中庭地。非 T2039_.49.1001b23: 安塔之所。胡不移東乎。於是衆僧乃悟。復移 T2039_.49.1001b24: 舊處。今所立者是也。余非好怪者。然見其佛 T2039_.49.1001b25: 之威神。其急於現迹利物如此。爲佛子者詎 T2039_.49.1001b26: 可默而無言耶 時正豐元年丙子十月日白 T2039_.49.1001b27: 雲子記 T2039_.49.1001b28: 三國遺事卷第三 T2039_.49.1001b29: T2039_.49.1001c01: T2039_.49.1001c02: T2039_.49.1001c03: T2039_.49.1001c04: 義解第五 T2039_.49.1001c05: 圓光西學 T2039_.49.1001c06: 唐續高僧傳第十三卷載。新羅皇隆寺釋圓 T2039_.49.1001c07: 光。俗姓朴氏。本住三韓。卞韓辰韓馬韓。光即 T2039_.49.1001c08: 辰韓人也。家世海東。祖習綿遠。而神器恢廓。 T2039_.49.1001c09: 愛染篇章。校獵玄儒。討讎子史。文華騰翥於 T2039_.49.1001c10: 韓服。博贍猶愧於中原。遂割略親朋。發憤溟 T2039_.49.1001c11: 渤。年二十五。乘舶造于金陵。有陳之世。號稱 T2039_.49.1001c12: 文國。故得諮考先疑。詢猷了義。初聽莊嚴旻 T2039_.49.1001c13: 公弟子講素霑世典。謂理窮神。及聞釋宗。反 T2039_.49.1001c14: 同腐芥。虚尋名教。實懼生涯。乃上啓陳主。請 T2039_.49.1001c15: 歸道法。有勅許焉。既爰初落釆。即禀具戒。遊 T2039_.49.1001c16: 歴講肆。具盡嘉謀。領牒微言。不謝光景。故得 T2039_.49.1001c17: 成實涅槃薀括心府。三藏釋論遍所披尋。末 T2039_.49.1001c18: 又投呉之虎山。念定相沿。無忘覺觀。息心 T2039_.49.1001c19: 之衆。雲結林泉。並以綜渉四含。功流八定。 T2039_.49.1001c20: 明善易擬。筒直難虧。深副夙心。遂有終焉 T2039_.49.1001c21: 之慮。於即頓絶人事。盤遊聖迹。攝想青霄。 T2039_.49.1001c22: 緬謝終古。時有信士宅居山下。請光出講。固 T2039_.49.1001c23: 辭不許。苦事邀延。遂從其志。創通成論。末 T2039_.49.1001c24: 講般若。皆思解佼徹嘉。問飛移。兼。以絢 T2039_.49.1001c25: 采。織綜詞義。聽者欣欣會其心府。從此因 T2039_.49.1001c26: 循舊章。開化成任。毎法輪一動。輒傾注江湖。 T2039_.49.1001c27: 雖是異域通傳。而沐道頓除嫌郤。故名望横 T2039_.49.1001c28: 流。播于嶺表。披榛負槖而至者。相接如鱗。會 T2039_.49.1001c29: 隋后御宇。威加南國。暦窮其數。軍入楊都。遂 Footnote: Footnote: Footnote: Footnote: Footnote: Footnote: Footnote: Footnote: Footnote: Footnote: 981 982 983 984 985 986 987 988 989 990 991 992 993 994 995 996 [行番号:有/無] [返り点:有/無] [CITE] |